坂口安吾「狂人遺書」(大活字本)

 安吾の作品は「堕落論」など、小品を集めた文庫本一冊を読んだだけなので何十年ぶりの再会です。その前に坂口安吾の名前を知ってる人・・10人に一人くらいですか。著書を読んだことある人・・100人に一人くらいかなあ。


書名「狂人遺書」の狂人とは豊臣秀吉のこと。彼が苦労して天下を平定したあと、妄執に取り付かれて理性を失い、狂ってゆく様を描いた短編ですが、小説なのか、エッセイなのかわからない文体にもどかしさを覚えました。


天下を取って地方の大名たちを安堵させたら、次に自分は何をするべきか。第一目標は唐との貿易を復活させ、ゼニ儲けに励むことであります。地方からチマチマ搾取するより、己の甲斐性でドカドカ稼ぎ、大名たちを睥睨する。そのためには朝鮮を支配して唐までのルートづくりが必要なので、現場の指揮官として小西行長加藤清正を派遣する。これが秀吉の朝鮮征伐プロジェクトですが、ご存じのように失敗しました。行長や清正が無能だったのではなく、秀吉の無知無能が招いた敗戦です。


ところが、メランコリーな日々のなか大朗報出現、淀君に赤ちゃん誕生です。これが秀頼。もう自分には跡継ぎは出来ないと諦めていたからどんなに嬉しかったか。俄然、元気を取り戻したが、それもつかの間、難問も生まれた。その時点で秀吉は甥の秀次に関白の座を譲り、家督の相続も終えてしまっていた。秀頼を跡継ぎにできない。えらいこと、してしもうた・・と拙速を悔やんでも後の祭り。天下をとった秀吉、二つ目のドジでした。


秀吉、使いの者を出して秀次に「あの~、関白の座、返してくれへんか」と探りを入れましたが「身勝手もええ加減にしなはれ、アカン」の返事。当たり前ですよね。そもそも秀吉は秀次の性格が好きではなかったので、だんだん腹が立ち「オレのお陰でトップの座についたのに、この恩知らずめが」と敵愾心が募ってとうとう「返さへんなら腹切れ」と無茶ぶりもええとこです。
 周りのとりなしもあったけど、結局、秀次は切腹します。それでも秀吉の腹立ちは収まらず、秀次の一族や部下三十数人に死罪を言いつける。なんの恨みもない幼児まで皆殺しにした。これで秀吉の人望はガタ落ちになった。


信長、秀吉、家康、と戦国時代のトップスリーを比べると<人品骨柄>の点で秀吉は第三位・・ビリではないかと。もっとも、冷酷非情という点では三人共通しており、信長だって似たようなもんでせう。しかし、その当時(江戸時代のはじめとか)に庶民あいてに人気投票したら秀吉がトップかもしれない。いや、秀吉をやっつけた家康家康は秀吉憎しの延長で大坂に憎悪の念を持ち続けたわけでもないから案外人気は高かったかも、という気もします。


安吾のこの作品、中味は面白いけれど、文章が雑というか、もうちょっと推敲したらええのに、と思うところがあって・・損をしている。ご本人に「小説を書いてる」という意識がなかったのかもしれない。(1996年底本 角川文庫)

 

 

廓 正子  「まるく まあ~るく 桂枝雀」

 一番好きな落語家は誰?と問われたら桂枝雀(故人)と答えます。 その枝雀の40歳過ぎまでの半生記。年譜で自分と同い年であること知った。昭和20年の米軍空襲で街のなか逃げ惑った経験も同じ。(枝雀の住んでいたのは神戸市灘区だった) 子供じぶんから人を笑わすのが好きで、ならばと弟と組んでラジオの漫才コンクールに出場、成績優秀でガキながらぎょうさんゼニを稼いだ。天与の才能だけど、父親は普通のブリキ職人だった。(ブリキって言葉もだんだん死語になりつつあります)


ラジオの漫才コンクールで常勝だったので桂米朝に目をつけられ、縁あって米朝最初の弟子になった。名前は桂小米。同じ頃、貧乏暮らしなのに神戸大学文学部に合格。スペイン語を学ぶつもりだったがそっちのけでひたすら落語の学習に励んだ。大学生としては語るべき何もない。なので、後年、結婚したあとのある日、役所から奨学金返済滞納を知らされてヨメさんははじめてダンナが大学生だったことを知るありさま。通学の往復路もずっと落語のねたくり(練習)に夢中だった。(大学は中退した)


小米改め、枝雀の落語で一番好きなダシモノは?と問われたら「宿替え」ですね。何回聴いても涙ちびるほど笑える。二番目が「高津の富」かな。話術とともに独特のオーバーアクションで全身運動。世の中にこれ以上のアホはいまへんで、の演技力がすごい。しかし、その「アホの表現」に完璧を追求したことがストレスになった?のか、まもなく「ウツ」に陥ってしまう。本人はこれを「死ぬのが怖い病」と呼んだらしい。ファンにすれば「枝雀がウツやて」と聞いても「そんなアホな」の反応しかできなかった。師匠の米朝もどう対応したらいいのか困ったと思う。


幸い、病は癒えて舞台復帰。これには志代子夫人のまあるい人柄が有効だったような気がする。もし、外聞を気にするような性格だったら困難は長引いたかもしれない。その後、エンジンかかってネタも順調に増え、順風満帆に戻ったはずだったけど・・・平成11年、自ら命を絶った。享年59歳。
 落語の極意は「緊張の緩和」という法則?を述べ、バカ笑いを理論づけ?していたが、dameo の勝手な想像では意外に「完全主義者」ではなかったのかという思いがある。他人を笑わせることにそこまで真摯にならないといけないのか。ええかげん人間のホンネであります。(昭和56年サンケイ出版発行 & 昭和の落語名人列伝 2019年 淡交社発行)

 

 

学研・辞典編集部「カタカナ新語辞典」

 戦前生まれはヨコ文字に弱くてこういうトラの巻が必要であります。おまけに加齢による記憶力減少でなんでもない日常語を忘れたりする。さらに、情報関連用語はヨコ文字氾濫状態でこの辞典が大活躍、と書きたいのですが、残念ながら活躍してくれない。なんでやねん?
 答えは「賞味期限切れ」です。購入したのは1996年。680頁に1万6000語のカタカナ語を網羅、というから大いに期待して買い、実際、役に立ちました。しかし、10年を経た2005年ごろから「ありゃ、載ってないがな」と困惑する場面が増えました。


この原稿を書くためにちょっとチェックしてみました。あちゃ~~<インターネット>がありません。<ブログ>もない。プロレタリア、プロローグ、フロン、ブロンズ、フロンティア・・。編集は1995年までに終えてるとしたら、掲載していないのが当たり前です。
 実はこの辞書が発売されたあとでパソコンが普及し、ネットやメール、ブログが急速に普及したと思われます。MSのWindows が普及しはじめたのが1995年ごろではなかったか。ちなみに、ウインドーズで引いてみると<ウインドーシステムを採用することで操作性を高めたパソコンのOS>が出てきます。そういう時代だったのですね。ついでにAIで引くと、人工知能云々という説明があります。概念としてはもう広く知られていたらしい。


ページをパラパラ繰ると、1頁中の言葉で全部知ってる言葉ばかりとか、逆に知らない言葉ばかりというページはなく、3~4割くらいはこの辞典に頼らなくても知っているという感じです。5000~6000語は日常会話で使ってるということです。

 補足すると、当辞典には、ボーイとかペンとかテレビとかサンキュー・・といった小中学生でも使う日常英語は掲載していないから、私たちは毎日1万以上の外来語を使って暮らしてると言えます。これらのカタカナ語がなければ、会話はできず、文章も書けない。(ペンやテレビは日本語で書く、話すほうが難しい)

現在は新しいカタカナ語が日々増えてるのでもう覚えきれない・・・。年寄りが置いてけぼりになるのは仕方ないか。

 

市場では改訂を重ねた新しい「カタカナ語辞典」がたくさん出回ってる・・のか、どうかわからない。辞典も電子化されて今や紙の辞典なんかぜんぜん売れないような気がします。ならば自分がが持ってる「役に立たない」カタカナ語辞典もすでに希少品かもしれない。というか、本当は片っ端から言葉を忘れているのが実情だから、捨てるなんてあり得ません。貴重な伴侶、ヘルパーであります。

 

 

みうらじゅん「ない仕事の作り方」

 みうらじゅんさんって何屋さん?って思っていましたが、答えは「ない仕事を作る」のが仕事だというのがご本人の説明。いかなるカテゴリーにも属さない新しい仕事を創造してメシのタネにする。仕事を選ぶのではなく、創造する。いやあ、カッコイイですなあ。生まれ変わったらマネしたい。


みうらセンセの創造した仕事で一番有名なのは「ゆるキャラ」づくりでせう。昔からあった着ぐるみを大変身させ、日本中に普及させた。ひこにゃんとか、くまもんは年間何百億円もの経済効果を生み、地方の活性化に大活躍しています。さりとて、これらのゆるキャラをみうらセンセが独占制作するわけでなし、なんぼ儲かったのか・・たぶん殆ど儲けはないでせう。「ゆるキャラ」というネーミングも優れものです。「着ぐるみ」のままだったらブームにならなかったと思います。


自分は全く知らなかったけど、近年ブレイクしたのは「見仏記」だそう。小学生の頃から仏像の写真を集めたり、絵を描いたりが好きでものすごい量の仏像情報をもっていたが、これは大人になっても役立たず、忘れかけていた。また仏教の教えにも興味があったけど「ない仕事」のままだった。
 年月経てこれらの蓄積情報が熟したのか、作家のいとうせいこう氏と組んで各地の仏像を訪ね、紹介する企画をはじめたところ、切り口の新鮮さ、面白さがうけて人気が出た。みうらじゅんセンセはイラストを担当した。僧侶や学者が解説するのはすでに「ある仕事」だけど、専門家でないみうらセンセが関わると、ない仕事が「ある仕事」に出世する。視点、切り口の上手さでブレイクしました。


2009年、東京国立博物館で「国宝阿修羅展」が開催されると、なんと100万人近くの観覧客が押し寄せた。「見仏記」というゆるいPRが下地をつくっていたのが大ブレイクを招いた。同時にみうらセンセにはどどどどどと仕事が殺到した。ライフワークはエロ本のコレクションというみうらセンセ、仏像解説のセンセなんて「ない仕事」のはずなのに、しっかりメシのタネになりました。子供じぶんからのコツコツ勉強、情報集めが何十年も経って突然「仕事」になったのです。


本書を読むと、いま問題になっている人工知能による人間イジメをかわすにはみうらセンセのようなゆるい生き方が安全策かもと単純に思ってしまう。もっかの人工知能に「ゆるキャラ」のネーミングを生む才能はなさそうだし。仏像の研究とエロ本のコレクションに情熱を注ぐ生き方を是とする度量があるとは思えない。そして「ない仕事」を「ある仕事」に変換するためのキーワードは「好き」であります。「好き」にこだわり、情熱を注ぎ続けることが「仕事の創造」にいたる。こんなの誰にも出来そうだけど・・できませんて。
 クソまじめな人生論や仕事論を10冊読むより、これ一冊読むほうが有意義である、と礼賛する dameo でありました。(2015年 文藝春秋発行)

 

 

村瀬孝生・東田勉「認知症をつくっているのは誰なのか」

 介護のプロ二人の対談集。このブログの読者に当事者はおられないと思いますが、身内や知人に認知症の方おられるかも知れません。dameo は明日にも発症するかもしれない。意味不明な文を書きはじめたら「やっぱりな」と疑って下さいまし。本書は弱視者用の大活字版なのでとても読みやすい。


書名「認知症をつくっているのは誰なのか」という問いに答えるような各章のの見出しは下記の通り。

1・介護保険制度と言葉狩り認知症をつくっている。
2・あらゆる形の入院が認知症をつくっている。
3・厚生労働省のキャンペーンが認知症をつくっている。
4・医学界と製薬会社が認知症をつくっている。
5・介護を知らない介護現場が認知症をつくっている。
6・老人に自己決定させない家族が認知症をつくっている。
7・本当の介護は薬や抑制で老人を認知症に追い込んだりはしない。


この7項目を見るだけで認知症と介護問題の実情が想像できます。両親などに「認知症?」の事態が起きたとき、たいていの人は「病院で診てもらう」を選びますが、予備知識がないと医師の診察結果や処方を鵜呑みにしてしまう恐れがある。できれば、診察と同時にこの本のような、認知症への視点が異なる情報を知っておくほうがよいと思います。
 視点が異なる・・本書の著者は医師ではなく、現職の介護職です。上記の7項目は介護職の立場で見た治療や介護の実情を述べたものです。のみならず、村瀬氏は自ら福岡で「よりあい」という施設をつくり、身体拘束や薬漬けをしない、ソフトな介護生活を模索、実施している。老人に寄り添うと言う点では
大病院や精神科医師による治療、指導にくらべてずっと穏やかな接し方をしています。7項目では、医師やお役所への批判だけでなく、介護業者や患者の家族にもきつい批判の言葉がありますが、すべて自らの経験、調査に基づく意見です。


厚労省の予想では、2年先の2025年には認知症患者が700万人に達すると。老人の5人に一人くらいはボケますよという。なぜ、そんなに増えるのかという問いの答えは「長生きによる老人の増加」で納得してしまいますが、実は隠れた問題がある。身体が弱って暮らしに支障が生じると家族は介護保険の申請をします。細かい問答があって役所が介護の等級を判断するとき「認知症の懸念はありますか」も訊かれる。本当は「無い」けれど、「ある」と答えた方が当然介護は手厚くなる。だったら「ある」にしておこう。本人も家族もこれがベターと判断する。こうして新しい認知症患者がカウントされる。2025年に700万人の認知症患者、の統計にはこんな架空?の患者も含まれるというワケです。国家規模のデータと個人事情のあいだにはこのようなズレ、誤認がある。家族の安易な判断がボケ老人の数を増やしてるという実例です。(2018年 SBクリエイティヴ発行)

 

 

 

 

鈴木大介「老人喰い」

 オレオレ詐欺などで高齢者を騙して金を奪うグループに接触し、内情をレポートした読み物。最近は騙して奪うだけでなく、殺して奪うなど凶悪化して社会不安は更に高まった。初期のオレオレ詐欺は単純に騙してナンボというシンプルな犯罪だったが、年月を経て犯人はワルなりにノウハウを積み、著者の言い方では「洗練されたシステム」になってるというから恐ろしい。一時的な流行犯罪ではなく、技術を磨いてライフワークを目指す若者もいる。


対して、被害者である老人は概ねずっと「アホ」のままであります。最近、福島県の農村で起きた強盗傷害事件の被害者夫婦は「在宅中は玄関の鍵をかけない」という昔からの村の風習を守っていたために易々と犯人に襲撃され、大金を奪われた。夫婦は「世の中に悪人はいない」が信条だったのか。


成功、失敗体験を積み上げて高齢者詐欺は以下のような組織、人材を以て営業?活動を行う。

1・名簿屋
2・実行犯
3・闇オーナー


初期のオレオレ詐欺はまるでテレホンセンターみたいに大人数を使って名簿の人物に電話をかけまくった。100人に掛ければ一人くらい引っかかるアホな老人がいるだろうという単純な発想だけど、掛ける側、即ち犯人にもアホが多いから効率が悪い。そこで大事なのは「金持ち老人のリスト」だ。名簿屋は興信所の身元調査みたいに個人情報を調べ、ランクをつけて実行犯グループに売る。信頼度の高い情報は一件、何万、何十万で売る。電話による広告で使う個人名簿は一件2~3円らしいから無茶高い。


犯罪においても生産性向上は必須である。つまり、成功率を高めるためには優れた人材を養成し、ミスやロスを避ける。これが成功しつつあるから高齢者詐欺は減らないのであって、詐欺犯人は被害者より格段に知的レベルが高い。言葉使いなどマナーも優れている。人材養成所は、以前は隠れ家的な部屋だったが、現在は駅前の普通のテナントビルを借りてテキトーな社名を掲げ、犯罪者を養成している。但し、訓練は相当厳しいらしい。その一方で、良い人材を確保するために「福利厚生手当」とかもあるそうだ。


闇オーナー・・養成所の責任者は店長とか番頭と呼ばれ、雇われの身分だが真のオーナーは店長でも滅多に顔を合わさないか、会ったことがないケースもある。本書ではその正体を説明していないが、自分が想像するに暴力団の幹部かもしれない。一般人のワルが成功を重ねてトップに君臨しても内輪モメなどで殺される懸念があるが、暴力団ならまずその心配はない。


本書を読んで気になったことがひとつ。3月3日「FIREという生き方を考える」記事のなかで、サラリーマン人生に絶望した若者がFIREを目指す、と書いたけれど、詐欺師のウデを磨く若者にも同じ発想があるかもしれない。コツコツと資金を貯めるのではなく、一発でン百万という大金を稼ぐには高齢者詐欺は魅力的なコンテンツというわけだ。あな恐ろしや。金持ち老人から大金を奪うことにさほど罪悪感はなく「所得の移転」くらいの感覚なのだろう。著者に詐欺犯罪を糾弾する姿勢がイマイチなのも気になった。(2015年 筑摩書房発行)

 

 

小松成美「さらば勘九郎」 ~十八代目中村勘三郎襲名~

 本書の発行は2005年。この年に勘九郎は十八代目勘三郎を襲名し、華やかに襲名披露興行を行った。しかし、そのわずか7年後、~さらば勘三郎~という酷いことになるとは・・・。著者も世間の歌舞伎ファンにも、まさかのまさか、平成時代で一番悲しい人気役者喪失事案になった。自分の想像でいえば、ファンの多くは勘三郎より勘九郎を失った哀しみのほうが大きいように思う。(57歳没 死因は食道ガン発症に基づく急性呼吸窮迫症候群)


自分が勘九郎にホレたのは松竹シネマ歌舞伎で「野田版 研辰の討たれ」を観てから。伝統の舞台をここまでぶっ壊していいのか、と驚く斬新なアイデアと超高速な舞台進行、それに合わせた猛烈な早口セリフの面白さにはまってしまった。
 2012年、即ち、勘三郎の亡くなる年に大阪松竹座市川染五郎が「研辰」
をやったので出かけた。観客はどうしても勘九郎勘三郎)の研辰と見比べてしまうから染五郎はもう必死のパッチの大熱演。おかげでやんやの大喝采をあびて染五郎もお客もホッ・・としたものです。


もう一つの傑作は「夏祭浪花鑑」これは平成中村座の興行で演出は串田和美。通常の舞台では「親殺し」の場面もある陰惨な悲劇ですが、これがトンデモ演出で親会社の松竹のエライさんが観たら「ふざけるのもええ加減にしろ」と立腹必定。おまけに歌舞伎に関係のない俳優を重要キャストに選んだので悶着起きないほうがおかしい。そこんとこ、どうして丸く収めたのか、不思議です。


この芝居をニューヨークのリンカーンセンターに持ち込んで広場に木造の歌舞伎小屋を建て公演した。江戸時代の芝居なのにラストシーンではニューヨーク警察のポリスが勘九郎をタイホする場面になり<カブキ>を観にきたつもりのニューヨーカーは仰天した。(下の動画参照)
https://www.youtube.com/watch?v=-pfoJuYLlRY


この作品も松竹座で公演されたので出かけた。やはりラストはポリスが・・。この本は著者と勘九郎の家族を含めての密着形取材によって記録、構成している。プライバシーもろ見えの場面が多々あったはずで一般市民ではありえない取材だった。なんとかまるく進められたのは勘九郎が酒好きで常にほんわかした時間をつくったからではと想像する。役者では断然広い交友も取材の垣根を低くしたと思う。それにしても本書「さらば勘九郎」のわずか7年後に「さらば勘三郎」の日がやってくるなんて・・。(2005年 幻冬舎発行)

 

 

内舘牧子「必要のない人」 (大活字本)

 最近、内舘センセの消息を聞かなくなりましたが、もう引退されたのでせうか。本書は著者が初の短編集として著したもので1998年作だから、もう25年も昔の作品。表題の「必要のない人」は大企業勤めのサラリーマンが定年前にリストラの憂き目に遭い、女房にも嫌われて自尊心ガタガタ、人生に絶望する話であります。この境遇に類する人、当時で100万人以上いたでせう。


・大企業に定年まで勤めた。(定年前に閑職に追いやられた)
・仕事に対する自尊心が強い。小さい自慢話を何十回も繰り返す。
・趣味がない。
・会社以外での友達がいない。
・家族に疎まれている。


この五つの条件が揃った人、要するに、定年後の余生を楽しく暮らそうという願望がまったく無い人・・なんていませんよ、と思いたいけれど、残念ながら今でも100万人はいるのであります。
 本書の主人公は大手新聞社の印刷部に勤めていた。あと数年で定年退職というときに配置転換となる。印刷機の性能向上で人余りが生じたからだ。主人公は全く場違いのカルチャーセンターの事務局に配属されたがとうてい馴染めず、鬱々した挙げ句に退職。妻は「なんか趣味をもって」「軽いアルバイトして」と懇願するが、その気ナシ。朝から晩までテレビの前に座ってる。そのうえ、酒を飲むようになり、だんだん量が増えてゆく・・。
 どこにでもあるような夫婦げんかの末、妻は「出て行きます」と宣言、ボーゼンとする主人公・・。何十年も印刷工として、また一家の主として家庭を支えてきたという自負や自尊心は一瞬に消えてみすぼらしいオッサンに成り下がった。


司馬遼太郎のエッセイ集「風塵抄」のなかでも同類の人物が出てくる。「カセット人間」というタイトルの文で「ほとんどの人は永く生きたようなつもりでいながら、実は語るに足るほどの体験は数件ほどもない。そんな小さな自慢話をことあるごとにくり返し、馬鹿にされる」こんなオジサンも優に百万人はいるでせう。(原本 2014年 角川文庫発行)

 

 

鈴木淳史「わたしの嫌いなクラシック」

 よくもこんなしょーもない本を出版したもんだ、と感心しつつ読みました。著者は1970年生まれだから出版時に35歳、この若さで、音楽世界を知ったかぶりでボロクソにけなしてる本であります。言うまでも無く、書名はクラシック音楽自体を貶してるのではなく、世評高いクラシックの曲や演奏者のなかに嫌いなものがある,と言う意味です。


読んでみると、年若いわりにはすごい量の音楽を聴きこなしてることが分かり、悪口を書くにもその理由を細かく記述していて、それなりに「労作」なのであります。ま、単純に言って、音楽に限らず、芸術作品は褒めるほうが悪口言うより易しい・・というか、無難であります。そもそも悪口しか言えない(書けない)批評家はメシ食えませんからね。


第二章 <わたしの嫌いな演奏家
 まっさきに登場するのがカラヤンです。20世紀最高の人気指揮者が大キライだと。著者が言うに「カラヤンのやったことは道端の石ころを削って磨いてピカピカにして「これ、立派でしょ」と売り込む。そんな音楽づくりが嫌いだと。凡庸な曲を飾り立てて名曲ふうに仕上げて売り込む。その才能は認めるが
、その営業的センスが嫌いだと。実はカラヤンのこんな嫌われ方は鈴木センセがライターになる前から世間に広まっていました。残念。ほかに、カール・ベームやダニエル・バレンボイムサイモン・ラトルもしっかり嫌ってます。


書き出せばキリがないのでヤメにして、dameo の嫌いな作曲家・作品を書くと、シューベルト交響曲は<未完成>を含めて全部嫌い。退屈にして冗長な音楽は睡眠剤として役立つけど、何千円も払って聴きたいと思わない。営業的に三大交響曲といわれる<運命><未完成><新世界>のなかで一番嫌い。
 では、誰が好き?といわれても・・困りますけど。でも、一番熱心に聴いたのはブルックナーです。ライブ演奏にこだわったために、交響曲の四番、五番、七番、八番、九番、の五曲を「聴きこなす」のに20年を費やした。われながらアホちゃうか、という思いでありますが、耳から仕入れた聴覚遺産?です。


ついでに、クラシック音楽のヴォーカルで dameo が一番好きな曲は?・・ベスト3を挙げてみますと・・
モーツアルト・・・アヴェ・ヴェルム・コルプス
ラフマニノフ・・・ヴォカリーズ
③アレグリ・・・・・ミゼレーレ いずれも自分の臨終のとき聴けたらサイコーでありますが、願いが叶う可能性は0パーセントですね。


②はわりあいポピュラーでTV-CMでバックに流れていたような気がします。
https://www.youtube.com/watch?v=zzplYkuiZSA
同じ曲のチェロ編曲版
https://www.youtube.com/watch?v=SVyza9jzw18

(2005年 洋泉社発行)

 

 

織田作之助「木の都」 //// 井伏鱒二「山椒魚」 

木の都
 50年ぶり?くらいに再読。本を読む楽しさの一つ「しみじみ感」満点の短編であります。主人公は区役所に用事があって10年ぶりに大阪市天王寺区の故郷を訪れ、子供じぶんのあれこれを思い出しながら昔の住民の消息をたずねる。ただそれだけの話でありますが、町の風景の描写がリアルなのと、実は自分も子供の頃は近くに住んでいたので懐かしさは一入。さらに、自分の親戚の男が作之助と同年で近所どうし、小学校、中学校も同じクラスだったことが親近感を高めます。作品が書かれたのは1944年で、明くる年は米軍の大空襲で町は焼け野原になってしまったから、運良く被災前の緑濃い「木の都」が書けた。


33頁「路地の多い・・というのはつまり貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。数多い坂のなかで地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口縄坂、と坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが、とりわけ懐かしいのは口縄坂である。 口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえばはや察せられるように口縄坂はまことに蛇のごとくくねくね木の間を縫うて登る古びた石段の坂である。」(引用ここまで)


この坂道紹介は約90年昔の文章だけど現在もすべて残っている。坂道の少ない大阪の町なので観光価値があり、保存状態は良い。但し、織田作がこよなく愛した口縄坂はなんどか改修されて直線になってしまい、歩きやすいけど情緒は失われてしまったのが残念。それにしても「口縄坂」とは良いネーミングだった。坂道の上部の街は「夕陽丘」という町名で中世の頃は坂の下は海岸で夕陽の眺めがすばらしいのでこの名前がつけられた。日本の大都市のなかで海の彼方の夕陽風景を楽しめるのは大阪だけ、というのは余り知られていない。


物語はこの町の「名曲堂」という音楽喫茶を通じて貧しい家庭の消息を伝えるもので主人公である「私」にとっては他人事でしかないけれど、はじめに書いたようにしみじみ感十分の小品であり、最後はこんな文で終わる。
 口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を上り下りすることも当分はあるまいと思った。青春の回想の甘さは終わり、新しい現実が私に向き直ってきたように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛かっていた。(了)


何度も改修されて直線になってしまった口縄坂


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山椒魚
 昔、教科書で読んだ気がするけど記憶あいまい。谷川の底の岩屋で住む山椒魚がなんという迂闊か、身体大きくなって頭が入口につかえて出られなくなってしまった。えらいこっちゃ、とハンセーしても後の祭り、人間で言えばムショで終身禁固刑を送るようなものです。なのに、ちっちゃい蛙や小エビがやってきて不遇を冷やかす・・。
 大人になってから、この物語は一種の不条理劇なのかとも思っていたがそうでもないらしい。ネットで少し調べるとこの物語は著者自身が何度も書き換えていろんなバージョンができ、結局、定番「山椒魚」はできなかったようだ。
 井伏鱒二センセ自身はこの作品がお気に入りで、そのぶん、もっと良くしようとあれこれいじってみたけれど、改めてから時間がたつとまた気が変わって手を入れてしまい・・と、難儀なことでございます。さりとて山椒魚がダイエットに成功して無事に岩屋から脱出、なんてイージーの解決をはかるわけにもいかず、そのうち教科書のオーダーもなくなって知名度は下がったと思われます。ただ、発想は面白いので文学者以外の人がリメークしてはどうか。たとえば狂言でこれをネタに新作に仕立てるとか・・。(2005年 くもん出版