織田作之助「木の都」 //// 井伏鱒二「山椒魚」 

木の都
 50年ぶり?くらいに再読。本を読む楽しさの一つ「しみじみ感」満点の短編であります。主人公は区役所に用事があって10年ぶりに大阪市天王寺区の故郷を訪れ、子供じぶんのあれこれを思い出しながら昔の住民の消息をたずねる。ただそれだけの話でありますが、町の風景の描写がリアルなのと、実は自分も子供の頃は近くに住んでいたので懐かしさは一入。さらに、自分の親戚の男が作之助と同年で近所どうし、小学校、中学校も同じクラスだったことが親近感を高めます。作品が書かれたのは1944年で、明くる年は米軍の大空襲で町は焼け野原になってしまったから、運良く被災前の緑濃い「木の都」が書けた。


33頁「路地の多い・・というのはつまり貧乏人の多い町であった。同時に坂の多い町であった。高台の町として当然のことである。数多い坂のなかで地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口縄坂、と坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかしさにしびれるが、とりわけ懐かしいのは口縄坂である。 口縄(くちなわ)とは大阪で蛇のことである。といえばはや察せられるように口縄坂はまことに蛇のごとくくねくね木の間を縫うて登る古びた石段の坂である。」(引用ここまで)


この坂道紹介は約90年昔の文章だけど現在もすべて残っている。坂道の少ない大阪の町なので観光価値があり、保存状態は良い。但し、織田作がこよなく愛した口縄坂はなんどか改修されて直線になってしまい、歩きやすいけど情緒は失われてしまったのが残念。それにしても「口縄坂」とは良いネーミングだった。坂道の上部の街は「夕陽丘」という町名で中世の頃は坂の下は海岸で夕陽の眺めがすばらしいのでこの名前がつけられた。日本の大都市のなかで海の彼方の夕陽風景を楽しめるのは大阪だけ、というのは余り知られていない。


物語はこの町の「名曲堂」という音楽喫茶を通じて貧しい家庭の消息を伝えるもので主人公である「私」にとっては他人事でしかないけれど、はじめに書いたようにしみじみ感十分の小品であり、最後はこんな文で終わる。
 口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を上り下りすることも当分はあるまいと思った。青春の回想の甘さは終わり、新しい現実が私に向き直ってきたように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛かっていた。(了)


何度も改修されて直線になってしまった口縄坂


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山椒魚
 昔、教科書で読んだ気がするけど記憶あいまい。谷川の底の岩屋で住む山椒魚がなんという迂闊か、身体大きくなって頭が入口につかえて出られなくなってしまった。えらいこっちゃ、とハンセーしても後の祭り、人間で言えばムショで終身禁固刑を送るようなものです。なのに、ちっちゃい蛙や小エビがやってきて不遇を冷やかす・・。
 大人になってから、この物語は一種の不条理劇なのかとも思っていたがそうでもないらしい。ネットで少し調べるとこの物語は著者自身が何度も書き換えていろんなバージョンができ、結局、定番「山椒魚」はできなかったようだ。
 井伏鱒二センセ自身はこの作品がお気に入りで、そのぶん、もっと良くしようとあれこれいじってみたけれど、改めてから時間がたつとまた気が変わって手を入れてしまい・・と、難儀なことでございます。さりとて山椒魚がダイエットに成功して無事に岩屋から脱出、なんてイージーの解決をはかるわけにもいかず、そのうち教科書のオーダーもなくなって知名度は下がったと思われます。ただ、発想は面白いので文学者以外の人がリメークしてはどうか。たとえば狂言でこれをネタに新作に仕立てるとか・・。(2005年 くもん出版