廓 正子  「まるく まあ~るく 桂枝雀」

 一番好きな落語家は誰?と問われたら桂枝雀(故人)と答えます。 その枝雀の40歳過ぎまでの半生記。年譜で自分と同い年であること知った。昭和20年の米軍空襲で街のなか逃げ惑った経験も同じ。(枝雀の住んでいたのは神戸市灘区だった) 子供じぶんから人を笑わすのが好きで、ならばと弟と組んでラジオの漫才コンクールに出場、成績優秀でガキながらぎょうさんゼニを稼いだ。天与の才能だけど、父親は普通のブリキ職人だった。(ブリキって言葉もだんだん死語になりつつあります)


ラジオの漫才コンクールで常勝だったので桂米朝に目をつけられ、縁あって米朝最初の弟子になった。名前は桂小米。同じ頃、貧乏暮らしなのに神戸大学文学部に合格。スペイン語を学ぶつもりだったがそっちのけでひたすら落語の学習に励んだ。大学生としては語るべき何もない。なので、後年、結婚したあとのある日、役所から奨学金返済滞納を知らされてヨメさんははじめてダンナが大学生だったことを知るありさま。通学の往復路もずっと落語のねたくり(練習)に夢中だった。(大学は中退した)


小米改め、枝雀の落語で一番好きなダシモノは?と問われたら「宿替え」ですね。何回聴いても涙ちびるほど笑える。二番目が「高津の富」かな。話術とともに独特のオーバーアクションで全身運動。世の中にこれ以上のアホはいまへんで、の演技力がすごい。しかし、その「アホの表現」に完璧を追求したことがストレスになった?のか、まもなく「ウツ」に陥ってしまう。本人はこれを「死ぬのが怖い病」と呼んだらしい。ファンにすれば「枝雀がウツやて」と聞いても「そんなアホな」の反応しかできなかった。師匠の米朝もどう対応したらいいのか困ったと思う。


幸い、病は癒えて舞台復帰。これには志代子夫人のまあるい人柄が有効だったような気がする。もし、外聞を気にするような性格だったら困難は長引いたかもしれない。その後、エンジンかかってネタも順調に増え、順風満帆に戻ったはずだったけど・・・平成11年、自ら命を絶った。享年59歳。
 落語の極意は「緊張の緩和」という法則?を述べ、バカ笑いを理論づけ?していたが、dameo の勝手な想像では意外に「完全主義者」ではなかったのかという思いがある。他人を笑わせることにそこまで真摯にならないといけないのか。ええかげん人間のホンネであります。(昭和56年サンケイ出版発行 & 昭和の落語名人列伝 2019年 淡交社発行)