中井正弘「仁徳陵 ~この巨大な謎~」を読む

 著者、中井氏とは一、二度お会いしたことがあって、堺市大浜公園の「蘇鉄山」山名登録運動がご縁だった。もしや、地元のバー「クラシカル」マスター髙杉さんの紹介だったかもしれない。中井氏は堺市に勤める公務員(すでに退職)が本職だけど「堺の歴史ならまかしとき」の歴史通でもあり、本書もその研究の成果の一つであります。氏の歴史の知見、学者並みです。


本書は、百舌鳥の古墳群が世界文化遺産登録云々の話なんかぜんぜんなかった1992年の発行。しかし、内容の面白さは今も変わらず、再版してもかなり売れるのでは、と思うくらいです。何が面白いかといえば、仁徳陵に関しては分からないことだらけで、何一つ断定できることがない。いまだに推定、想像でしか語れない大古墳だからです。


被葬者は仁徳天皇か?・・この肝心要のことが分からない。仁徳陵だから仁徳天皇の御陵だろうというのは仮の話。そもそも、仁徳天皇が実在の人物だったかどうかもハッキリしないのであります。それでは話にならないので、通称「仁徳陵」としているだけです。築造されたのはいつか。現在では「五世紀後半あたり」というのが有力な説らしいけど、プラスマイナス100年くらいの誤差はある。なにしろ文字のない時代のことだから、情報は中国の文献をアテにするというのがもどかしい。


仁徳陵は巨大な前方後円墳である。これくらいのことは昔から分かってまっしゃろ?・・いや、分かってなかったみたい。上から見ると鍵穴型のユニークなデザインですが、昔は、これを空から眺めた人は一人もいなかった。本書の江戸時代の図版を見ると二つの山が並んでる図ばかりで「前方後円」の形は認識できなかったようです。文明開化以後、飛行機で空から眺めることが出来るようになって初めて「こんな形やったんか~」と確かめることができた。


なんて書くと、「んぐぐ、アホクサ!」とむかつく人物がいて、それは千数百年まえに古墳を設計したデザイナー。彼は前方後円のデザインをしっかり頭に描き、全長480mもの巨大古墳をつくった。文字も紙も鉛筆もない時代にどうして設計し、施工したのか。古墳の方角は当時の海岸線と平行する向きになっているけど、これを測量し、現場で指示するだけでも難しい。なぜ、この向きにしたのか。海上から眺めたときに最も大きく見えるようにしたかった。たとえば、外国から使者などが訪ねてきたとき、強大な権力者のシンボルとして誇示したかったのでは、と言われている。


下の古墳の地形図を見ると、仁徳陵は表面がぐちゃぐちゃ状態であることがわかる。となりの履中天皇陵とはえらい違いです。なんでこんなにブサイクなことになったのか。著者もあれこれ考えているけど分からない。いろいろワケありで、工事途中でほうりだしてしまったのか。そんなアホな。森友学園じゃあるまいし。


今でこそ御陵は聖域のような扱いをされているけど、昔は、詳しくは幕末以前までは聖域なんかではなかった。朝廷の権力が衰え、武家社会になるとメンテナンスがおろそかになってしまった。戦国時代は小高い地形ゆえに陣地として利用された。不敬もええとこであります。
 平和な時代になると一般人も自由に出入りし、山菜狩りや物見遊山のために登った。仁徳陵周辺の農民はお濠の水を灌漑用水に使った。田畑が拡大するとお濠の水だけでは足りなくなり、遠く狭山池からも引き水したという。当然、水路沿いの農民は反対し、もめ事多々であった。


御陵の聖域扱いが顕著になったのは幕末に尊皇思想が強まってから。現在の拝所ができたのも幕末で、以後、宮内庁の管理になると拝所以外、全面が出入り禁止になった。それで私たちは拝所が御陵の正面であると思っているけど、単に行きがかりでそうなっているだけで、どの面が正面なのか分かっていない。なので、もしや私たちは仁徳天皇のお尻に向かって手を合わせているかもしれない。(1992年 創元社発行)


仁徳陵(右)の表面地形はぐちゃぐちゃ状態。南面だけきれいなのは江戸時代に修復工事をしたから。拝所ではこの面を拝む。左の「履中天皇陵」はすぐ南にある。