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~レガ爺 dameo の泡沫ライフ~

小林惠子「聖徳太子の正体」を読む

聖徳太子は外国人だった・・の衝撃珍説
 20年くらいまえに「太子快道」なるウオーキングコースをつくろうと思い、太子に関する本を30冊くらい読みました。そのなかで一番興味深かったのが本書です。え?・・太子は外国人やて?、そんなアホな。であります。
 ページを繰ると著者自身「まだまだ研究途中で、結論ではない」と予防線を張っていますが、dameo はすっかり魅了されてしまい、むっちゃオモロイやんかと小林センセのファンになってしまいました。


しかし、読んでみると無学な自分には思いっきり難解な内容で脳ミソはワヤワヤ状態。5~6世紀頃のユーラシア大陸における諸民族の盛衰についての知識がないとさっぱり理解できない。そもそも固有名詞が読めない(一部はルビがあるけど)からうろたえるだけです。見たことのない漢字も多々でちんぷんかんぷん。・・などと愚痴っても仕方ないから思いっきりアバウトな「まとめ」を書きます。


太子は遊牧民の親分だった
 中央ユーラシアの遊牧民国家、突厥(とっけつ)の軍団は西暦600年(推古8年)朝鮮半島から北九州を経て瀬戸内海を進み播磨で上陸した。リーダー、
達頭(たつとう)はのちの聖徳太子。戦争なら上陸地の住民を皆殺し、略奪するが、一行は逆に地元になじみ、定住した。そこが現在の兵庫県太子町である。
 当地で大和政権の様子を探り、機を見て大和へ入った。(太子は20歳ごろと思われる)ここで一挙に推古天皇の身内になる。・・ということは、歴史に描かれる太子の誕生から少年時代の事蹟はすべて後世の作り話ということになる。それにしても日本語が話せないでどうして皇族の「身内」になれたのか。


小林センセの説ではそんな些末なことは無視して良いのでありませう。肝心なことは太子は推古天皇のサポーターであって自ら権力者にはならなかった。その一方で隋との交渉や憲法の制定など国益に関わる仕事を為した。そして、人生の後半は為政者ではなく、学者、思想家として仏教の研究に勤しんだ。ま、このへんは誰でも知っている太子の人物像です。逆に、太子が日本人ならこんな人生を送るほうが不自然で推古女帝に代わって天皇になり治世に勤しむことが普通であります。


dameo が聖徳太子にかんして最初に抱いた素朴な疑問は「皇族なのに、なぜ仕事に馬を使うのか」でありました。飛鳥から斑鳩や難波への往来はすべて乗馬で、お供は数人しかつかない。他の皇族のように輿に担がれて、がない。なのに、幼少時に乗馬訓練をしたという話もない。この疑問、太子はバリバリの騎馬民族だから、という一言で解決です。


外国による日本侵攻といえば、ふつうは鎌倉時代の「元寇」を想像しますが、実際は古代から頻繁にいろんな国が日本侵攻を企てた。幸い、日本が敗戦国にならなかっただけで、小規模な侵略~土着はあったと思われます。また、交易や遭難、漂着でしょっちゅう外国人は来ていた。その中で飛び抜けて頭の良い人物がいて皇族に潜入した。小林センセにはいっそう研究に励んでいただき、世間の常識に挑んでほしいと願っています。(1990年 文藝春秋発行)


達頭可汗
達頭可汗(Tarduš qaγan、漢音:たつとうかがん、拼音:Dátóu kĕhàn、生没年不詳)は、突厥の西面可汗。室點蜜(イステミ)の子。達頭可汗[1]というのは封号で、姓は阿史那氏、名は玷厥(てんけつ)という。
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突厥
(日本語読み:「とっけつ」あるいは「とっくつ)、あるいはテュルク(古テュルク語: 𐱅6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族。柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると部族連合である突厥可汗国(日本語読み:とっけつかかんこく。突厥帝国とも)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には、内紛によって東西に分裂した。