夏目漱石「猫の墓」の原稿を拝見

 先月末に養老孟司「まる ありがとう」という愛猫の追悼本を紹介しました。先日、なんばのまちライブラリー(民間の図書館)へ行くと玄関のショーケースに夏目漱石の「猫の墓」の原稿(複製・原本は大阪公立大学の収集品)が展示してあった。漱石の手書き文を見るのははじめてです。漱石山房特製の原稿用紙にわりあいきれいな文字で綴ってある。紙とペンの原稿の時代、自家用の原稿用紙を拵えるのは作家のステータスだったと思います。


漱石の「猫の墓」で描かれる猫は大ヒット作「我が輩は猫である」の主人公でありますが、小説と同様、名前はなかった。だからタイトルも「まるの墓」とかではなく、単に「猫の墓」。猫と漱石や家族との付き合いもわりあい淡泊な感じです。しかし、それにしては漱石の猫観察は細かくて、養老孟司氏が「まる」のラストシーンを描いた文章と相通じるものがあります。漱石は文章には書かなかったけれど、夏目漱石を一流作家にした裏方なのだから、哀惜、感謝の念、大きかったと想像します。以下、作品を一部省略して紹介します。

 

引用元(<永日小品>集の第8作目)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/758_14936.html

 

猫の墓

 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃そろえた上に、四角な顎を載せて、じっと庭の植込みを眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍で騒いでも、知らぬ顔をしている。


小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度のめしを、台所の隅に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒る様子もなかった。喧嘩をするところを見た試ためしもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕がない。のんびり楽々と身を横に、日光を領しているのと違って、動くべきせきがないために――これでは、まだ形容し足りない。ものうさの度をある所まで通り越して、動かなければ淋さびしいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼かれはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳子を、ぼんやりひと所に落ちつけているのみである。彼が家うちの小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然と認めていなかったらしい。


 それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追おっかけられる。そうして、怖いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子を突き破って、囲炉裏の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼の存在に気がつくのはこの時だけである。彼もこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。これが度重なるにつれて、猫の長い尻尾の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後には赤肌に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼万事に疲れ果てた、体躯を圧し曲げて、しきりに痛い局部を舐め出した。


 おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻は至極冷淡である。自分もそのままにして放っておいた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。咽喉の所に大きな波をうたして、くしゃみとも、しゃくりともつかない苦しそうな音をさせる。苦しそうだけれども、やむをえないから、気がつくと表へ追い出す。でなければ畳の上でも、布団の上でも容赦なく汚す。来客の用意に拵らえた八反の座布団は、おおかた彼のために汚されてしまった。

              (略)

 明くる日は囲炉裏いろりの縁に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪まきを出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈の上に倒れていた。
 妻はわざわざその死にざまを見に行った。それから今までの冷淡に引更えて急に騒ぎ出した。出入りの車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏に「この下に稲妻起る宵あらん」と認ためた。車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷やかした。
 小供も急に猫を可愛いがり出した。墓標の左右に硝子の罎を二つ活けて、萩の花をたくさん挿した。茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた。――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝りは、静かな夕暮の中に、幾度か愛子の小さい咽喉を潤した。
 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥の上へ載せておくようである。


下の画像は上記の文の太字部分の手書き原稿