森本哲郎「月は東に」を読む

 ~蕪村の夢 漱石の幻~ という副題がついている。雑誌に連載したエッセイをまとめた地味なつくりの本でありますが、内容はとてもユニークな発想で、漱石ファン、蕪村ファン、どちらにもおすすめしたい作品です。


誰でも知っている漱石草枕』の冒頭と言えば ~ 山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。 情に掉させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい … という文章ではじまるのですが、著者は、本書の主人公は漱石が敬愛する与謝蕪村の分身なのだ、と想像する、いや、もうほとんど決めつけている。「草枕」では主人公は<画工>という職業で描かれているけど蕪村もプロの画家で旅をしながら絵を描き,売って生業にした。


ひえ~、そんなアホな、と言いたくなりますが、著者は真剣であります。中学生の頃からポケットに「蕪村俳句集」を忍ばせ、漱石の「草枕」を何度も何度も読み返して春光まぶしい山里の桃源郷を想像した。他愛ない空想かもしれないが、何年経ってもこの思いは変わらず、とうとう夏目漱石は与謝野蕪村の人生を「草枕」の主人公に写して小説をこしらえたのだ、と自信満々であります。今ふうに言えば「草枕」の主人公は与謝野蕪村のアバター(分身)だと言うのです。


自分は蕪村も漱石も皆目知らない爺なので検証などできるわけない。しかし、「草枕」は漱石の他の小説に比べたら雰囲気の異なる作品であることはなんとなく察することができます。さらに言えば、漱石自身、余技として俳句や日本画をたしなみ、蕪村ワールドに親しんでいた。だからといって「草枕」で画工が俳句をひねるという場面は出てこないが、敬愛する蕪村の生き様を「草枕」の主人公に投影したいと言う思いは十分伝わると、著者、森本センセに共感するのでありました。


漱石がいかほど蕪村に憧れ、近づこうと努力していたか、俳句においては蕪村作品を手本にした?と思われるものがたくさんある。たとえば・・・

蕪村・・牡丹散てうち重なりぬ二三片
漱石・・二三片山茶花散りぬ床の上


蕪村・・絶頂の城たのもしき若葉かな
漱石・・絶頂に敵の城あり玉霰(あられ)


蕪村・・春雨や小磯の小貝ぬるるほど
漱石・・春雨や京菜の尻のぬるるほど


蕪村・・骨拾う人にしたしき菫かな
漱石・・骸骨を叩いてみたる菫かな


う~~ん・・・んぐぐぐ・・三番目の春雨の句なんか剽窃といわれても仕方ないような。諸兄の感想はいかがでせうか。自分のような鈍感人間が読んでもクオリティの差はしっかり分かります。


著者の調べでは、蕪村、漱石、両者ともに生涯に2500~2800の句を作っている。数の上では互角でありますが、芸術価値では漱石センセが完敗でありませう。そういえば「夏目漱石句集」って見たことがない。(不詳)もし、漱石が俳句に自信をもっていたら小説や随筆にさりげなく紹介してもよいと思うのですが、そういう場面はあるのでせうか。(これも不詳)


ま、なんというか、漱石の俳句は所詮、余技、道楽の類いである、蕪村に比べたらヘタは当然として思考停止してもよいのですが、一方、漱石ほどの大作家、文学者が二千数百もの句を詠みながらオールB級に甘んじたことに<小さな感動>を覚えるものであります。十七文字で人生を、世界を詠むことができる俳句のすごい表現力。それを易々とこなした(ように思える)蕪村に対する漱石の思いは憧憬、尊敬の念だけだったのか。


読み終わって数日たったころ、ハタと思いついたことがある。「草枕」冒頭の文句、智に働けば角が立つ、云々は、もしや,漱石の蕪村に対する劣等感を他人事のように言い表してるのではないか。智を働かせても意地を通してもマッタク蕪村の域に達しない・・と嘆きつつ、されど、詩人や画家の活動は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い、と。ま、しゃあないか。
 著者、森本センセの自信満々の空想に更にdameo の妄想を重ねたのであります。漱石大センセ、スビバセンね・・と、ここは枝雀師匠ふうに謝っておきます。


面白半分に書いた感想文ですが、久々に「余韻が味わえる」読書になりました。漱石の蕪村に対する憧憬と劣等感。いや、憧れの気持ちは本物だけど劣等感など失礼千万な邪推かもしれない。でも、漱石は「生まれ変われたら蕪村になりたい」と100%願っていたでありませう。蕪村以外に「なりたい人」なんていなかった、と自信もって言えます。(1992年 新潮社発行)


 余韻といえば、https://rubyleo.hatenablog.comさんが11月27日のブログで「余韻を楽しむって贅沢ですか」という題の文を書いておられます。今や映画を見ても歌を聴いても、ラストで余韻を味わえる場面は皆無になった。映画のエンドロールは作品の余韻を味わうには有意義な時間なのに、歌手が歌い終わって深々とお辞儀するシーンは歌手と聴衆の一体感を生むために必要なタイムなのに、いまどき、そんなのムダな時間とばかりカットしてしまうとのご意見でした。同感であります。余韻と言えばもうひとつ・・美味しい酒に出会ったときは喉を過ぎてから余韻に浸るという愉しみがあります・・といっても昔の話。コロナ禍でアクリル板立てたカウンターじゃ余韻なんか味わえません。


<追記>念のために、図書館の全集作品棚で「夏目漱石俳句集」を探してみた。岩波書店の「夏目漱石全集」の第十七巻に<俳句・詩>編があり、俳句は2560句が収録されている。最後の数句を書き写してみた。


吾猫も 虎にゃならん 秋の風

行く年を 隣の娘 遂に嫁せず

水仙や 朝風呂を出る 妹が肌

初雪や 二合の酒に とけるほど

 世に「夏目漱石句集」なる出版物が存在しないワケ、納得であります。