カズオ・イシグロ「日の名残り」を読む

 この本を読んでからもう4年も経っていた・・。人生の名残をしみじみ感じるこの頃であります。2017年暮れの某日、久しぶりに「まちライブラリー」を訪ねたら、この本と「夜想曲集」の2冊が棚にあったので両方借りました。書店では売り切れ、念のために市立図書館の予約状況を調べると200人待ちという状況・・この本を借りるために訪ねたのではないのにラッキーな出会いでした。


さらに、あくる日の夜、Eテレで「クラシック音楽館」を見終わったあとに「文学白熱教室」という番組があり、これがイシグロ氏の学生向けレクチャーを収録したもので、彼の文学観、発想方法などの話がとても参考になりました。この二つの出会いでもう読むしかない、という感じ。ノーベル賞は、文学音痴、駄目男にも効果を及ぼしたのであります。


受賞理由で語られた選定委員の言葉「世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵」を聞くと身構えてしまいます。しかし、読んでみると難解な言葉やもったいぶった言い回しがない文章で一安心。ただし、その平易な文の裏に仕掛けられた隠喩を探りながら読まねばならない。字面だけ追うと3ページで退屈するでせう。


ストーリーは英国の貴族、ダーリントン卿に仕えた執事の回想録として概ね一人称で語られ、最高の執事の仕事はいかにあるべきか、完全主義を目指しつつ、失敗や挫折も味わい、主が仕掛けた政治、外交の駆け引きにも巻き込まれ、ふと気がつくと時代は変わっていて誇り高い執事人生は過去のものになっていた。・・といったところですが、本書の一番の魅力は上質な文章にあります。


これは翻訳者、土屋政雄氏の功績も大きい。それにしても、純粋な日本人であるイシグロ氏が、第二次大戦前の英国貴族の生活、執事や多くの使用人との主従関係のデリカシーをどうして学んだのか、この努力はたいしたものです。


そんなの驚くことはない。米国人の作家、ドナルド・キーン氏は清少納言の宮廷生活を見てきたように書いてるではないか、といわれたら、ナルホドと納得する。しかし、1930~50年ごろの英国貴族の暮らしについては、リアルに知っている英国人がごろごろいる。


何より、貴族は現存する。平安時代の宮廷とは全然ちがう時代設定だから、それを純粋日本人が書くのはものすごくリスクが大きい。リアリティに瑕疵があればボロクソに批判される。しかし、そんな危惧を乗り越えて本書は「ブッカー賞」を受賞した。少なくとも日本人が英国の貴族生活を描くことによる瑕疵は無いものとされた。(注・ドナルド・キーン氏は日本に帰化した)


ラストシーン。執事は港町の桟橋のベンチに座っている。夕焼け空が美しい。隣に座ったみすぼらしい男(実は彼もB級執事だった)に、三十五年に及ぶ執事人生を回想しつつ語る。「私にはダーリントン卿がすべてでございました。持てる力を振り絞って卿にお仕えして、そして、今は・・ふりしぼろうにも、もう何も残っていません」のみならず、ずっと忠実に仕えてくれた女中頭の愛にも報いることができなかった。最高、完璧を目指した執事人生は何だったのか。しょせんは丸出駄目男でしかなかったのか。執事はさめざめと泣く。


隣の男が言う「おやおや、あんた、ハンカチがいるかね。どこかに一枚持っていたはずだ。ほら、あった。けっこうきれいだよ。朝のうちに一度鼻をかんだだけだからね。それだけだ。あんたもここにやんなさい」とハンカチを差し出す。イシグロ氏が川端康成小津安二郎に傾倒していたとしても、このワンショットは彼らに学んだものではありますまい。川端康成が小説のラストシーンをこんなふうに描いたらドッチラケであります。ここんところはリアル英国人の感覚で書いている。


気を取り直した執事は最後にこう言う。「ダーリントンホールに帰りましたら、新しいアメリカ人の雇い主のためにジョークの練習に取り組んでみることに致します」英国の貴族社会の伝統が薄れ、アメリカ人富豪の生活感覚が浸食をはじめる・・とは書いていないけど、そういうことです。大げさにいえば、英国の没落、良き時代の終わり。


本書は英国最高の「ブッカー賞」も受賞したけど、内容は英国人にとって愉快なものではない。日本人著者が「英国は傾いてますよ」と書いてるのだから。それでも賞賛されたのは、はじめに書いたように「上質な文章」のためではないか。風景の描写からさりげない日常の会話まで、とことん気配りが行き届いた文章ゆえに読み始めたら止まらない。こんなに「しみじみ感」に満ちた物語を読んだの、何年ぶりだろう。


巻末の丸谷才一の解説が秀逸で解説と言うより小さなエッセイになっている。これを先に読んでしまってはしらけてしまうかもしれないが、文庫版で350ページもあるし、内容をイメージしにくい場合は大いに参考になります。訳者、土屋政雄氏の「あとがき」も楽しい文です。「THE REMAINS OF THE DAY」を「日の名残り」と訳したセンスにも敬服。 (2001年 早川書房発行)

 

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