正岡子規「病牀六尺」を読む

 著者の代表作なのに読んだことがなかった。「病牀」の牀の字が見つからずに苦労しました。今どき、こんな文字使わないでせう。

子規は結核を患い、それが昂じて脊椎カリエスになり、猛烈な痛みのために絶えずモルヒネを使いながら最後の一年を過ごした。その日常生活を短文で綴った作品。確実に死が迫ってると悟りながら、痛みさえなければ明るく落ち着いた文章が続く。好奇心旺盛で子供みたいな知りたがりでもあり、例えば、亡くなる4ヶ月前にこんなことを書いている。


 近ごろは寝たきりに近い状態なので都会へ出る機会が無くなったが、
もし、叶うならこんなものを見物、体験したいと
・活動写真
・自転車の競争及び曲乗り
・浅草水族館
・自動電話及び紅色郵便箱
ビヤホール
・女剣舞及び様式演劇 (一部略)見物を希望している。


明治35年のことだけど、すでに自動電話が開発されていたのだろうか。
ビヤホールもあったのですねえ。(子規は下戸でほとんど飲めなかった)
 こんな他愛ないこと書いてるかと思えば、むろん、まじめな俳句論、芸術論もあり、教育論では女子教育の大事さを述べている。


 病状が進むにつれて当然ながら苦痛のため不機嫌な日が多くなった。
普通なら見舞い客など敬遠したくなるところなのに、子規は逆に来客を望んだ。その客の前で苦痛のため大声で喚き散らすこともあった。お客さん、どれほど困惑したことか。 恐らく、半分こわごわで見舞いにきた常連客が高浜虚子河東碧梧桐の両名。後に俳諧の双璧をなす人物である。愛媛・松山が俳句王国みたいによばれるのは、子規とこの二人のブランド力のおかげであります。


 苦痛は日々増すばかりで全身に浮腫が現れ、足は象の脚みたいに腫れ上がった。遂に覚悟した子規は妹に身体を支えられて画板に貼った紙に絶筆を記す。最後に「をとといの へちまの水も 取らざりき」と書いて力尽きた。享年35歳。もし、子規が50歳くらいまで生きたら、友人の夏目漱石に並ぶくらい日本人に大きな影響力をもった人物になったと思われます。(1993年 岩波書店発行)