中島義道「人を<嫌う>ということ」を読む

 愛する、好きになる、のハウツーブックはゴマンとあるが、人を嫌うをテーマにした本は珍しい。しかも、著者は哲学者である。ものごとの本質をとことん追求する学問であるから安直な感情論であるはずがない。で、身構えて読むと意外に哲学っぽくない。(むろん、俗論ではないけど)ごく皮相なところから「嫌いの本質」まで硬軟取り混ぜた「人を嫌うことの研究」成果が述べてある。

 

堅苦しい内容にならなかったのは、著作の動機が「著者自身が家族(妻と息子)にとことん嫌われている」切羽詰まった状況にあるから、であります。要するに家族間の内輪揉めという生々しい現実をテツガクしてみせたのであります。


 小説家が書けば陰気なホームドラマになるところ、哲学者は自分の火宅的状況を他人事みたいに書く。ここんところが面白いというか、タメになるというか・・。本書を読んで、人を嫌う、人に嫌われる、で悩んでいた人は少し気持ちが吹っ切れるのではと思います。くどい説明を避けてラ・ロシュフコーなどの箴言の引用も気が利いている。くだらない粗製濫造TVドラマ十本観るより役立ちますよ。


人を嫌いになる八つの原因
 よくもこんな面倒くさいことを考えるなあと感心します。でも、哲学者は「考える」ことが仕事なんだから苦にならないのでせう。

1・相手が自分の期待に応えてくれない
2・相手が自分に危害、損失を与える恐れがある
3・相手に対する嫉妬
4・相手に対する軽蔑
5・相手が自分を軽蔑していると感じる
6・相手が自分を嫌ってると感じる
7・相手に対する絶対的無関心
8・相手に対する生理的、観念的な拒絶反応

 

 こうしてまとめてもらうと嫌いの原因がわかりやすい。そやそやと納得してしまいます。誰でも自分の過去を振り返れば二つや三つ、いや、大半の人は八つ全部を体験してるのではと思います。私はいままで人を妬んだり、軽蔑したことは一度もないという人がいたら、神様か、さもなくば、第一級のアホでせう。そして、嫌悪感というのは「好き」や「尊敬」の感情よりずっとリアルであること。ここんところが大事です。


「嫌い」は消すことも克服することもできない
 本書の要は「嫌い」とどう折り合うか、であります。はじめに書いたように著者自身、家族にとことん嫌われて対応に苦慮した。むろん、謝罪の気持ちも伝えたが効果ゼロだった。(しかし、離婚はしなかったらしい)。ハヤイハナシ、哲学も宗教も救いにならない。


 な~んや、しょーもな、と読者は脱力してしまいそうになる。ここでオシマイにすればこの本は身も蓋も無い内容で終わるところ、著者はこんな提案をします。


自分のまわりには嫌いな人がいっぱい、ということを認識した上で「さらっと嫌い合う」関係をつくろうという。自分が他の人を嫌うぶん、自分も人から嫌われている。ま、世の中そんなもんや、でおさめようと。大事なことは、嫌いな人がいるのに、自分は嫌われたくない、嫌われる理由がないと思い込むことです。これはエゴ、ズルイ。「嫌い合う」にならない。そもそも、嫌う、嫌われるの感情、思考に正当性なんかないと割り切ることが大事です。


以上の好き、嫌いは自分と他者の間に生じる感情でありますが、実は「自己嫌悪」というのもあって、この扱いもまた難しい。自己嫌悪がマックスになれば自殺に至る。さらに、他人嫌い+自己嫌悪が生むものに「引きこもり」がある。少数の人は他人が嫌い、自分も嫌い、で悶々と悩む。ま、悩みの相談室なんかこれぽっちも役にたたない。


著者は哲学者でありますからこんなふうにまとめます。嫌う、嫌われることを抑圧するな。嫌われてなんぼ、の生き方もある。できれば、嫌う、嫌われるありさまを他人事みたいによく観察してみよ。あわよくば哲学が生まれますぞ・・とは書いてませんけど。


好き、嫌いを繰り返して人生終了、が普通
 考えてみれば、私たちの暮らし、人生は無数の好き嫌いの繰り返しのなかで営まれている。のみならず、わざわざお金を払ってアカの他人の嫌った、嫌われたドラマを見物したがる。殆ど悪趣味ではないか。歌舞伎の「忠臣蔵」やオペラ「カルメン」なんか全編、命がけで嫌い合うドラマである。嫌い合うことを肯定せよ。正しく善良な人間ばかりでは感動ドラマは生まれない。(H15年 角川書店発行)

 

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