三浦しをん「舟を編む」を読む

 今は難しい言葉の意味や文字遣いもネットで簡単に調べられ、また電子辞書なる便利なツールもあるけれど、それらのソースはすべて分厚い紙の辞書であります。本書はその紙の辞書の企画から完成までのプロセスを描いた苦難物語です。著者自身が「辞書って、どないして作るん?」と大いに興味をもったことが本作品の執筆動機になったのではと、駄目男は勝手に想像するのであります。


あの膨大な言葉の収集、解釈、用例、レイアウトなど、どのようにして構築していくのか。辞書専門編集員の仕事は今でもアナログ=鉛筆と紙が主役で、この仕事をこなすためには編集者の記憶力と言葉に対する高度な感受性、広義には文学的センスが求められます。加えて、いかに低コストで見栄え良くつくるかというビジネスライクな感覚も必要です。ま、興味津々の世界でありますが、駄目男には200%不向きな仕事です。


ストーリーは、馬締光也(まじめみつや)という風采の上がらない、話し下手な男が主人公で、彼が出版社の営業部から辞書編集部に配置換えになるところから「大渡海」という大部の辞書が完成する十数年間が描かれます。テーマ自体がえらく地味なので、アクションシーンやドラマティックな恋愛シーンは全然ないけれど、そこをなんとか読者を引きつけておくにはどうしたらよいか、著者、三浦しをんのワザの見せ所です。駄目男は、地味でかび臭い話を深刻に描かず、ライトノベルに仕立てたところが好評を得た理由だと思っています。しかし、シリアスなテーマを軽薄に描いた、と低評価する人もいるはず。


物語のラスト近く、編集責任者が【血潮・血汐】という単語が漏れていることに気づき、真っ青になって編集関係者を非常招集、バイトも含めて数十人が,他にも見落としがあるのではという恐怖にかられながら、全編を再チェックする場面があります。何重ものチェックをしていても人間のやることに完璧はなく、100点満点の仕事はできない。しかし、99点で満足するような人間に辞書の編集をする資格はない。単語を一つ掲載忘れしても人命に関わることではないけれど、編集発行者にとっては「死ぬほど辛い」屈辱的経験になる。いや、辞書に限らず、世に有るあらゆるモノが無名人間の地味な苦労や汗から生まれたのだと、たまには感謝するべきでありませう。