島田裕巳「捨てられる宗教」<大活字版>

 この一年のあいだに読んだ本の中では一番刺激的な内容の本でした。この先の「生き方」を真摯に考えてる人には参考になると思います。
 著者は死生観について新しい概念を考えだした。現在、普通に暮らしてるひとびとの死生観を<A>とし、これから先の長寿社会での死生観を<B>とした。死生観Aにおいては、人はいかに生きるか、が生涯のテーマだった。それが、この先の長寿社会においては「いかに死ぬか」が大命題になる。死ぬための生き方を考えなければならないくらい、人は死ななくなったのだ。


人生は短く、はかないゆえに惜しまれ、愛された。あまたの人生論も宗教も消えゆく命を惜しんで語られた。50歳、60歳、70歳で亡くなった人を哀惜の念で見送るのは自然な感情である。しかし、それが、90歳、100歳になると・・
 しかも、長期間の認知症の末での死となると身内でさえ「ホッとする」に変わる。高邁な人生論も宗教も何の価値も持ち得ない。病院から火葬場へ直行する「直葬」をもって人生終了。これが普遍化するともう宗教はいらない。
 実際、過去3年間のコロナ禍でこの薄情?な葬儀は大巾に増えた。コロナ禍が収まっても旧来の葬儀形式に戻るかどうか、わからない。


現在、30歳~40歳の働き盛りの人が老境に至るとき、人生は100歳時代を超え、110歳時代になるかも、と著者は言う。75歳でリタイアしても、あと35年という、生涯の労働期間に匹敵する<余暇>が生じる。どうして生きますか。一方で人間の労働は次ぎ次ぎロボットに置き換えられ、早晩、ロボットでさえいやがる些末な仕事を人間がこなす時代になる。80歳超のロージンにどんな仕事があるのだろうか。


宗教の無力化は世界中で進んでいて、イスラム教を除いては信者数は減る一方である。欧米の国民は日曜日はキリスト教会で礼拝、という私たちの常識は消えている。信者の7~8割はもう教会へ行かない。特にカトリックの衰退ぶりが顕著だという。日本での仏教信者も順調に減っていて、檀家数の減少は即、お寺の収入の減少につながり、さりとてそれを防ぐ有効な手立てもない。


本書のテーマは
■長寿社会がもたらす死生観の変化
■長寿社会ゆえの宗教の衰退 の二つだけど、個人的には死生観の変化とそれがもたらす社会的影響について真摯に考えたい。
 10年くらい前から、身内や友人が老人施設に入所し、ほどなく亡くなる場面を経験して「施設への入所は社会的な死である」と実感してきた。施設へ入った途端に認知症が一気に進んだ悲しい場面も見た。
 長寿社会では社会的な死と生命の死という二度の死を経てあの世へ行く例が増える。自分は、老人施設はたとえ善意の人ばかりで運営されてるところでも現代の「姥捨山」だと思っている。(2021年SBクリエイティヴ発行)