重松清・鶴見俊輔「ぼくは こう生きている 君はどうか」を読む

 親子ほど年の差が大きい作家と哲学者の連続対談を収録したもの。書名から察すると若者向けの生き方啓蒙書のように思えるけど、オジンが読んでも勉強になりました。驚くのは鶴見センセの記憶力の凄さで、自分の子供じぶんや若い時代の出来事から人名、履歴がスラスラ出てきます。50年、60年昔の出来事を昨日のことのように語れるなんて・・。重松センセが生まれる前の話に対応するためにどれだけ予習をさせられたか同情しました。自分ならもう汗が噴き出し、うろたえまくったと想像します。


国をつくったのはB級人物によるゲマインシャフト
 第一章は現代教育への批判です。「日本の本当の教育は明治時代に終わった」という項目をたてて「昔はヨカッタ」と明治時代を回顧する。寺子屋教育が近代教育へ脱皮する過程で生み出された人材が本当にスグレモノだったと言う。
 坂本龍馬吉田松陰高杉晋作西郷隆盛大久保利通木戸孝允、など、
日本の国体を変えるような大仕事をしたが、彼らはむろんエリートにあらず、田舎生まれ、田舎育ちの庶民だった。しかし、主義主張で争うようなことはあっても、基本的に「話せば分かる」同胞意識を有し、漠然とながら共同体感覚で活動した。情緒が通うゲマインシャフト(共同体)が政治を仕切ったといえる。


近代の欧米でこんな人事、人脈を以て国政を仕切った例はない。はじめに血筋や家柄ありきで人材を選ぶのが当たりまえだった。むろん、日本にも各地に大名という統治者がいたけれど、徳川幕府が崩壊する場面ではほぼ何の役にも立たなかった。基本、B級人物があ~だこ~だと喧嘩や同調を繰り返して、とにかく「国体」のベースをつくったのだから、まあ、オドロキの国づくりです。
 私たちは幕末~維新のドラマではとかく個人の働きぶりの評価にとらわれがちですが、絶対的ヒーローがいなかったにも関わらず、近代国家の成立を成し遂げたことを再認識する必要があります。


しかし、近代の体制づくりが進むにつれ、オッサンたちのゲマインシャフトでは統治できなくなり、優秀な人材は優秀な教育システム、即ち全国につくった帝国大学などの出身者に委ねるようになる。そして、優秀な人物とは優秀な学業成績を有する者という常識が生まれた。それが明治時代の後期だと鶴見センセは言う。学歴重視が「ほんとうの教育」を無にした。


反アカデミズムの旗手みたいな存在だけど
 世間の流れに阿らず、常にアンチを唱え、少数派に組するというのが鶴見センセの生き方でありますが、さりとて左翼思想に同調したりはしない。そこんところのバランス感覚を支えるのが永年に培われた教養でありませう。
  権威やネームバリューに逆らう姿勢はヨシでありますが、ホンネはどうなのか。対談を収録した本書ではたびたび「ハーバード大学ではね」のセリフが出てきます。いちいちブランドを出さなくても分かってますよ、センセイ。


ご本人が否定しても鶴見家はまごうかたなき良い血筋に恵まれている。母親の父がかの後藤新平だなんて庶民から見れば雲上の人にしか見えない。そんなファミリーで庶民の味方をうたっても、なんだかなあ・・がリアル庶民のホンネであります。(2010年 潮出版社発行)