岡 潔「情と日本人」を読む

 日常の生活態度においては自分は唯物論ふう思考の人間だと勝手に思っているけれど、岡センセの根本思想を為す、人間は「情」で生きるべし論を読むとなぜか「そやそや」と共感してしまうのであります。論理的思考のカタマリみたいな数学になんで情が絡むのか、ず~~っと不思議に思いながら今日に至ってこの薄っぺらな冊子に出会い、これがとてもソフトな語り口の日本人論なので二度読みして半分くらい納得しました。(残りの半分は理解不能


センセが偉大な数学者であったことを前提に考えるとやはり脳ミソがワヤワヤになるので、そこは端折ります。で、「人間は情で生きるべき」という説を明快に伝えるためにセンセは何と言うか。「儒教も仏教も思想・哲学としては二流である」と。(注)二流という言葉は使っていない。思想、哲学として完成度が低いという意味。
 知・情・意、の中で人間がオギャアと生まれたときから備わっているのは「情」だけである。知や意は成長過程での教育や社会経験で身につけるものだ。よって、人間の人間たる由縁は「情」である。だが、現代人はこれを忘れ、「知」や「意」の練達が優れた人間の証のように思っている。


然るに、儒教も仏教も情ではなく、知を駆使した思想・哲学である。たとえば、儒教のコンポン思想は「仁」だと説いているけれど、では「仁」とは何なのか。これの説明がない。(仁を掘り下げれば情になるはず)で、本意(本質)の説明をパスして儒教のコンポン思想は「仁なり」と説く。情を忘れて知の世界で意味づけするから定義や格言が量産されて儒教になった。そんなもん、二流ですがな、と岡センセはのたまうのであります。


仏教もインドから各地に流れて地域や民族ごとに「知」のチカラによって解釈、形式化され、本来、人間の心(情)の問題であったのに、知による操作で人や地域による幾通りもの仏教ができた。逆に言えば、そんな知的な操作を加えなければ多くの人に伝わらなかったとも言える。
 キリスト教徒に日本人の「情」が理解出来るか。宗教観でいえば彼らは「情」を魂」と置き換えて考えがちだから同一視は難しい。日本人にとってすごくシンプルな「情」の概念を中国人や西洋人に伝えるのは意外に難しいのであります。


岡センセは素粒子論の解説をしながら同じ文脈で「情を大切にせよ」と説く。その乖離の大きさにたいていの人はついていけない。それはセンセも分かっているので、くどいけれど同じフレーズが何度もでてきて「どない?」と念を押すのであります。それでも「最高難度の数学の研究に<情>は必須である」といわれると、センセは宇宙人かい?と思ってしまいそう。
 唐突にこんな読み物に出会って脳ミソがポカ~~ン状態でありますが、センセの発想は現代の道徳論や教育論の要になりうるというか、大事なヒントになるのではと思います。岡センセが我々に遺した大きな宿題ではないでせうか。


この冊子は「岡潔思想研究会」の主宰者、横山賢二氏が1972年にインタビューして原稿をつくり、(株)まほろば という自然食品の会社が発行したものです。北海道余市郡岡潔の思想を実践するための「情の里村」づくりをしています。冊子は非売品。
 ・・・と、書き終わってから「岡 潔」の名前を知ってる人がどれくらいいるのか気になったのでURLをご紹介。dameo は30年くらい前に岡センセが若いじぶんに暮らした旧宅を訪ねたことがあります。大阪府和歌山県の県境「紀見峠」の集落にある、ごく普通の和風民家でした。峠は江戸時代から明治時代は京都や大阪からの高野詣での人で賑わったところです。(旧宅はとりこわされて無くなりました)このときに「春宵十話」を読んだはずなのに全然覚えていない。

岡潔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%BD%94