中河与一「天の夕顔」を読む

 図書館で中島京子の本を探していたら、同じ棚の隅にはぐれモノのようにこの本があった。お、これ、昔に読んだことあるわ、と借りて帰る。嗚呼、懐かしい文章ではありませんか。イヤハヤ、60年昔はこんな本読んでいたのかとしばし感慨に耽ったのであります。戦前生まれの昔ヤングはこれとか「若きウエルテルの悩み」とか「野菊の墓」とか愛読したものであります。


話は超シンプル。ハタチ過ぎの青年が下宿先の年上の娘(但し既婚)に惚れ、相手も好意を寄せてくれて・・以後、延々とプラトニックラブが続く。それだけの話であります。後半、主人公が富山の山奥に入って一人暮らしするところは記憶が消えていたけれど、要するに波瀾万丈とかぜんぜんナシであります。


では、凡作、退屈作なのかといえばさうではありませぬ。読者を引きつけるのは文章の上手さです。大事件など起きないのに読み続けられるのは、彼女、彼を思い続けるひたむきさ、コレに尽きます。通俗小説とは一線を画した格調がある。そこんところ、全身通俗まみれの自分には上手く説明できないのが残念であります。嗚呼、それなのに、本書の発行時、文壇はこの秀作を無視したらしい。優れた新人の登場を妬んだのか、才能を警戒したのか。


文壇は冷淡だったが、読者には好評で何十万部というヒット作になった。これ一作で有名作家になったと言えるくらいだ。のみならず、今よりはるかに情報に疎い時代だったのに海外でも評価され、アルベール・カミュも賞賛した。結局、英米、仏、中国、スペインで翻訳版が出てプチスケールながら世界の名作の仲間入りを果たした。中河センセは執筆活動を続けたが、結局、これ以上の傑作は書けなかった。


巻末の保田与重郎の解説がえらい力作?であります。もちろん、中河を応援する内容で、当時(昭和初期)の文壇と文壇ジャーナリズムに対する批判を延々と述べている。「我が国の多くの浪漫的作家がその才能をいわゆる大衆小説の分野へうつし、時流に従って才能の堕落を伴ったのは悲しむべきことであるが、「天の夕顔」はそういう危険な崖の手前で踏みとどまり、典雅な小説をなした」などと。ま、中河与一に比べれば、太宰治なんて俗物の最たる有名作家でありませう・・とは書いていないが、そういうことであります。


「天の夕顔」は作家の知名度や出版社の宣伝力とは無縁で、読者から読者への口コミで評価を高めた数少ない小説といえる。但し、それは昭和時代の話で、平成生まれの若者が読んでも同じ高評価が得られるとは思えない。電子ブックで読めばイライラするだけではないか、と勝手に想像する。「風立ちぬ」なんかもそうだけど、デジタルが似合わない作品ってあると思います。
 ・・と書いて、奥付を見ると、本書は新潮文庫版で昭和29年発行、平成23年で85刷を数えている。一刷3000冊と見積もっても25万冊超。どんな人がこのしんきくさい物語を読んでいるのか、興味湧きます。


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今年の<半畳雑木林>

 昨年は一粒も発芽しなかったナンキンハゼ。今回は種の硬い表皮にツメキリのヤスリで傷をつけて植えたら無事に芽が出ました。

 <写真>今年のラインナップは左手前からザクロ、センダン、ムクロジシマトネリコと小さい鉢の左がナンキンハゼ、右は知らない人にもらった綿(ワタ)。秋に花が咲き、綿が実るそうで楽しみです。

 

 

ナンキンハゼ(左)と綿(わた)