大越哲仁「マッカーサーと幣原総理」を読む         ~憲法九条の発案者はどちらか~ 

 以前から興味をもっていた問題に答えてくれそうなこの本に出会い、さっそく読み始めるも、まあ、なんとややこしい話であることよ。3頁読み進んでは1頁後戻り・・という感じで、これは著者の文章力が拙いせいではなく、語られる問題が複雑すぎるせいであります。どの時点で、誰がああ言い、其れがこう言う、さらに別の某はかく言った・・と、そこは混乱しないように書かれているのですが、それでも頭がこんがらがってしまう。


 そんなゴチャゴチャは全部端折って著者が言うのは「憲法九条は幣原総理の発案である」という説であります。かなり説得力があります。マッカーサーとの交渉をそばで見ていたような書きぶりのせいでもありますが。ところが、この説にどっこい待ったをかけた人物がいる。それが幣原総理の長男、幣原道太郎なのだから、ガチョーン(ふる~~)であります。これじゃ話が前へ進まない。


 半分くらい読み進んで、ようやく九条発案の輪郭が見えてきた。幣原総理が憲法案づくりにおいて一番頭を悩ましたのは天皇の位置づけだった。戦勝国の中には天皇は有罪である、処罰するべきという意見があり、この要求を呑まされると日本の歴史がひっくり返り、大混乱に陥る。で、これだけは避けたい。そこで、天皇は象徴として権力から離れ、憲法国民主権を謳う。その代わり、戦争に関わる問題では武力放棄をうたい、世界に前例のない非武装国として再出発する・・。この国民主権と非武装の考えはマッカーサーの要求に十分応える内容である。もう一つの要求、華族制度の廃止も受け入れた。


 つまり、天皇の存在自体を守るために、平和を謳う思想は自虐精神満点の、諸外国に土下座するようなへりくだった案をもってマッカーサーと会談した。終戦後、まだ日本への憎悪、侮蔑の感情に満ちていたマッカーサーとの交渉が対等であるはずがない。日本を、二度と白人社会に刃向かわせる国家にしないために叩きのめす、との思いは欧米すべての国に共通する感情だった。


 著者のこの説によれば、憲法案に関する重大な交渉を幣原総理一人で交渉したことになる。当時の録音やメモがないので、実際はどんなやりとりがあったのか分からない。しかし、この交渉のあとでGHQが憲法の原案をつくり、これを議論して憲法案がまとまってゆく。
 日本には再軍備させない・・という強い意志で支配を続け、憲法九条に戦争放棄をうたわせたたマッカーサーだが、なんという皮肉か、数年後に朝鮮戦争が勃発すると、一転して日本に再軍備を要求した。以後、九条は空文化してまもなく70年以上になる。(2018年 大学教育出版発行)


<追記> 今年(2021年)の憲法記念日はコロナ禍のニュースが多すぎて、いつもの年にも増して陰の薄い記念日になってしまった。国民投票法の改正に関して前進はあったけど、マイナーな話題に終わっている。


 それはともかく、世論調査憲法改正の賛否を問うと、半分くらいの人が「改正反対」と答える。「九条」に限っての問いでも反対が半分くらいある。賛否は個人の自由であるけれど、反対派の無知、鈍感ぶりにはホント愛想が尽きるというしかない。彼らのほとんどは「GHQ」や「WGIP」の何たるかも知らないで反対している。憲法改正問題は政治思想の問題ではなく、単純に 知能レベルの問題である。

 

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閑人帳

わが作文を聴けば恥ずかし<イマーシブリーダー>

 よろず時代遅れの dameo がつい最近知ったのが表題のイマーシブリーダー。画面の広告とかお知らせの記事を無くして本文を読むことに集中できるようにした無料サービスのこと。何より画面がすっきりして視覚的に快適です。


 それだけでなく、文章を音声で読み上げてくれるサービスもあり、画面を見る必要もないからいっそう楽ちんです。数年前からあったらしいけど、今まで知りませんでした。新聞記事とか公的情報だけでなく、個人の書いた文章も女性が読んでくれるのだから、なんか秘書を雇ったような気分になります(笑)。


 本当に間違いなく読んでくれるのか、自分の読書感想文「金閣寺の燃やし方」で試してみました。昔のロボットみたいなぶっきらぼうな棒読みを想像していたけど、いえいえ上手なもんです。イントネーションもそんなに不自然ではない。こんなに進歩しているのかと感心しました。


 しかし、欠陥(読み間違い)もあります。記憶量不足?のせいか、機転が利かないのです。たとえば「三島由紀夫水上勉」の語はちゃんと読めます。ところが「水上作品においては・・」の語句は「すいじょうさくひんにおいては」と読んでしまう。「水上」だけでは人名と判断できないのです。現時点での「賢さ」の限界かもしれません。でも、早晩、解決されると思います。


 今までヘタ作文をわんさと書いてきたけど、それを読み上げてくれるなんて初体験です。ロボットと分かっていても、なんか恥ずかしい。汗がでそう。終了すると「すんまへんなあ、次はもうちょっとマシな文書きますよって」と言い訳しそうになります。


イマーシブ(immersive)
没入型/没入感:仮想空間にいながらあたかも実際に体験しているかのような状態。 演劇、映像、音響、ゲームなど様々なジャンルで活用されている。


試してみて下さい。
・MSのedgeを使ってることが条件です。
・画面右上のアドレスバーに本を開いたようなデザインの記号があればOKで す。(☆のとなり)読み上げに対応していないページではできません。
今のところ、dameoの読書感想文は概ねOKみたいです。
 本の記号を押すと画面上部に「音声で読み上げる」がでるのでクリックします。読み上げが始まります。ストップするときは,もう一度記号をクリックすると停止します。 

閑人帳

閑人帳・・日々の話題、感じたことを綴ります。

コロナでご無沙汰してるあいだに・・

 ヨドバシカメラで買い物をした帰り、大阪駅前の歩道橋まできて風景の変わりようにビックリしました。低層の阪神百貨店の裏側に、いつの間にか高層ビルが伸び上がっています。阪神百貨店が改築する前のおなじみの風景は跡形もなしです。


 歩道橋自体も広々と快適に改造されています。二枚目の写真は歩道橋の拡張部分に設けられたデッキ。こんなん、いつの間にできたん?と、自分の鈍感ぶりを笑ってしまいました。都会に住む田舎者であります。


 しかし、デパートも商店も休業が多く、人通りが少なく、なんか荒涼とした雰囲気さえある。こんな風景、あと半年続いたら「コンクリート砂漠」になってしまいそう。都会はやっぱりテキトーにごちゃごちゃしてるところに魅力があります。


 通行人は100%マスクして、みんなダンマリで歩いてる。この風景って歴史に残ります。「令和のはじめにこんな難儀があったんやなあ」令和の次の次の世代は面白がって画像を見るでせう。

 

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岩中祥史「出身県でわかる人の性格」を読む

 ふだん、あまり意識しないけど、言い古された日本人論の一面であります。狭い国土を47地域に分けて、それぞれ人の性格が異なる・・信用しない人もいるけど、干支や血液型よりは信頼できるような気がします。ここでは、最近の出来事から富山県と愛知県の県民性をとりあげてみたい。具体的でわかりやすい例です。


富山県:「不二越」会長の発言が問題化
 総合機械メーカーの不二越が、7月5日、本社の東京一本化を発表した会見の席上、本間博夫会長が採用に関し富山で生まれ地方の大学に行ったとしても、私は極力採らない」「偏見かも分からないが、閉鎖的な考え方が強いとして、地元、富山県出身の若者は採用したくない旨の発言をした。これを聞いた学生はむろん、従業員はえらいショックを受けたと思います。現実には、従業員の8割くらいが地元、富山県の出身だから「俺らは嫌われていたのか」と受け止めたはずです。


社員の採用方針について、こんなえげつない発言は聞いたことがない。広く解釈すれば憲法に背く差別発言です。しかし、ま、そのひどい発言はヨコに置いて、本書では富山県民をどう書いているか。よく働き、よく稼ぎ、なのに消費はしない・・世帯収入額では何と日本一!、持ち家率も日本一、自宅の広さも日本一、しかし、生活消費性向は37位!・・。要するに、外面的なリッチさにおいて47都道府県でトップであります。不二越の社員が6畳一間のアパートで貧乏暮らし・・はありえない。


こんなによく働き、よく稼ぐ人たちをそしるとはなにごとか。本間会長は彼ら社員の美徳の裏側に潜む「閉鎖性」を非難したと思われます。勤勉、堅実、安定を尊ぶあまり、リスクを嫌い、進取の精神に欠ける。こんな社員はいらないと言いたかったのでせう。この考え自体はまっとうであります。何十年も社員の働きぶりを見てきて、地元出身社員の真面目だけど考えが「閉鎖的」な面に不満を募らせてきた。本間会長の発言は非難されても仕方ない。しかし、閉鎖的という不満は理解できる。バカマジメをウリにするのは日本郵便に任せておきませう。

 

◆愛知県:いつまでもつか「レゴランド」 

 大規模な集客施設が一つも無い名古屋にようやくできたレゴランド。本当に大規模なのかと思ったら、敷地はたったの9ヘクタール(笑)でも、狭くても大入り満員なら言うことなしでありますが、実はかなり厳しいらしい。施設周辺の飲食店が閑散続きではや閉店したとか、集客のためにあれこれ割引きサービス連発とか、情けない話ばかり。


著者、岩中氏は愛知県の県民性にはえらく辛口の評価をしている。いわく「47ある都道府県のうち、愛知県ほど立派な県名をもってるところはない。知を愛する・・哲学的名称である」しかし、と続けて「県民性は哲学とは真逆、カネとモノにこだわる気風いと強し」と。さらに、トヨタの車には哲学がないと厳しい。


 もし、レゴランドがこけるようなことになれば(ないと思うけど)その原因は県民性に起因すると考えてよさそう。その県民性として「遊びのセンス」が欠けていることをよく表しているのが名古屋には多数を集客できるお祭りがないことだと言う。そういえば・・知りませんねえ。祇園祭天神祭、東北や九州にも素晴らしいお祭りがあるのに名古屋はナシ。お祭りという、カネやモノで計れない楽しいことには興味をもてないのか。なんだか侘びしい。


 レゴランドの大弱点はリピーターをつくりにくいこと。一度は行くが二度はけっこう。大人のほとんどはそうでせう。こんなこと企画時点で分かってるのにつくってしまった。ディズニーランドやUSJはリピーターが支えてる。三月、半年後に再訪しても新しいアトラクションが楽しめる。レゴランドでそれは無理だと思いますよ。


 しかし、レゴランドは愛知県民だけで企画したものではないはず、レジャービジネスのプロたちがわんさと集まってアイデアを出し合った。開業半年で黄信号がともるなら計画時点で頓挫したに違いない。ここは愛知県民のプライドをかけて頑張ってもらわねば。(2003年 草思社発行)

 

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林真理子「野心のすすめ」を読む

 平成31年4月1日、65歳の林真理子さんはまた一つ「野心」を実現した。もうこれ以上はないといえるステータスを獲得した。新元号に関する有識者懇談会のメンバーに選ばれたのであります。他のメンバーはといえば、前最高裁長官、経団連会長、NHK会長、京大教授、山中伸弥彌・・そうそうたるメンバーのなか、文壇を代表しての抜擢であります。さぞかし気持ちヨカッタでありませう。実際、林さん以外に適任者がいるかと考えても思い浮かばない。文学的実績よりキャラクターで選ばれたこと明白であります。

 

 野心を持て、B級に甘んじるなと説く。生涯、ユニクロ松屋のレベルに甘んじて生きるなんて夢がなさ過ぎる、と力説するのが本書で、まあ、普通にハウツーものと言えるのですが、本音をセキララに書いてるところが面白い。人生レースの確たる成功者になることでサイテーにして屈辱的な経験もかえって書きやすくなる。普通ならイヤミになるええかっこしいもなにげに許してしまう気になります。

 

 山梨のしょぼい本屋に生まれた。名も無く貧しく美しくもない娘であったが、都会と都会的な仕事へのあこがれは人一倍強く、無理して東京へ出、日大芸術学部卒業という、まあ人並みの学業をおさめたが、就職先の広告会社での仕事はスーパーのチラシのデザイン。風呂ナシ六畳一間のアパート暮らしに悶々とする日々。なんとかしなくちゃ、と糸井重里氏が主宰するコピーライター塾になけなしの12万円払って入門した。これが良かった。同じ広告の仕事でも、才能ある人は会話の内容から昼メシの食い方までハイセンスで生き生きしている。凡人、馬鹿に囲まれて暮らす愚を悟った。かくして著者はコピーライターとしてそこそこの実績をつくることができた。

 

 1982年、エッセイ集「ルンルンを買っておうちへ帰ろう」で大ブレーク。文庫版を合わせると100万部も売れた。これで「有名人になりたい願望」は成就。以後、直木賞ほか文学賞もとって収入も増え、六畳のアパート暮らしがウソに思える大出世した。下を見るな、現状に満足するな、上を目指せ・・。成功は本人の努力の賜でありますが、持って生まれたキャラ、例えば、どんなエライ人でも臆せず付き合えるとか、がプラスになっている。普通なら嫌われるブランド嗜好や浪費癖もなんとなく「林さんらしい」で済んでしまう。物書きでこういうタイプは珍しい。そのぶん、文学者のイメージが薄いのは仕方ないでせう。

 

 実を言うと、著者の文は、週刊文春の連載エッセイを何十回か読んだだけ。子供がいることも知らなかった。上流志向強力なのになぜか普通のサラリーマンと結婚して、それでうまくいってるのも「?」でありますが、もしや、ダンナさんのほうが人生の達人かもしれません。(2013年 講談社発行)

 

太宰治「津軽」を読む 

 昭和19年、即ち敗戦の前年、著者は出版社から旅費をもらって故郷の津軽訪問の旅にでる。だったら、作品は風土記、紀行文、又は随筆の類いになるはずのところ、本書は「小説」のジャンルに入っている。なんでかなあと思いながら読み進んでいるうちに納得できるのでありますが、登場人物はみんな実名なので創作とは言い難い気もします。

 

 津軽出身なのに地元のことはほとんど知らないので「ふるさと再発見」を意図しての3週間ほどの旅。はじめは型どおり地理的な紹介などから話が進み、参考図書まる写しという場面もある。しかし、旅に慣れるにしたがい、風景とともに人物紹介場面が増えて、そのほとんどがかつての使用人(津島家の雇い人)で気心が知れているから酒を呑みつつの懐旧談になり、太宰作品らしくない「明るい話」が続く。文学作品を書くというより、とりあえずレポートを書いておくという軽いノリが読んでいて気持ち良い。

 

 ラスト近くになって、著者が一番会いたいと願っていた女中のたけに合う場面で「自分は大金持ちの親でなく、この女中に育てられた」と述べ、兄弟とはソリが合わない、粗野でガラッパチ人間になったのはたけのせいだとする。もし、彼女の影響がなければ、大阪弁で言う「ええしのぼんぼん」で終わっていた。人気作家、太宰治は無教養な女中たけさんがベースをつくった。話半分に聞いておくとしても興味深い逸話であります。

 

 丁寧な推敲もせずに出版してしまったのではという印象もある。しかし、その雑さが魅力にもなっている。巻末の解説で亀井勝一郎(懐かしい名前!)はこの「津軽」は太宰全作品のなかで最高作だと書いているが、小説のようにしっかり作り込まないアバウトな内容と表現が好感をもたらしている。

 

 ラストはこんな文章で締めくくられる。「津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたように思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」

 (昭和26年 新潮社発行)

 

田辺聖子「私本・源氏物語」を読む

 日本の文化遺産といってよい「源氏物語」をコケにした、おふざけ源氏物語。もともと読む気なんかなかった「源氏物語」ではありますが、本書を読んで200%原作を読む気がなくなりました。田辺センセもけったいな本を書きはります。こんな本、誰が読むねん、と思って奥付を見たら、あちゃ~、85年から91年までに14刷とある。もしや10万冊くらい売れたのかも知れません。誰が買うてん、こんな本。
 
 田辺聖子源氏物語の現代語訳本として、与謝野晶子や、谷崎潤一郎円地文子とならぶ立派な「新源氏物語」を書いている。それで十分ではないかと思うのですが、このイチビリすぎる「私本・源氏物語」もぜったい書きたかった、と本人が述べている。まあ、そういう発想も田辺聖子らしいけれど。
 
 本物の雅の世界ではなく、思いっきり俗物源氏物語を書きたかった。よって、本書に登場する人物は光源氏をはじめ、全員が今ふう大阪弁を語るのであります。えらいこっちゃ。
 
 たとえば、こんな場面。夜ごと美女のもとへかよう光源氏、若い美人に飽きてしまい、ある夜、付き人の中年男(おっさん)に、婆さんもええもんやで、とのたまう。「私も若い女は飽いたよってに、ここらでひとつ、年かさのオナゴに当たって経験ふやそ、思うてな、典侍(ないしのすけ)をくどいた」 おっさんはおどろいた「年かさはよいが、五十七、八とは・・。程度(ほど)ちゅうものがおますがな、もうちょっと頃合いの年かさのご婦人、おられませんのか」「いや、三条のが四つ上、六条のが八つ上や」
 
 全編、こんな会話が繰り返されて話が進む。田辺センセ、書いてて楽しいけど、どっかで打ち切らんとズルズル続いて果てがない。・・ので、明石の汐汲み女がでるところで打ち止めとなる。その「明石の汐汲み女」が筋肉隆々、アスリートみたいな大女で、なよなよ男、光源氏はさすがに持てあましてしまい・・てなところでエンドになる。
 
 こんな、おもろいけどゲスな「源氏物語」で田辺センセは何を伝えたかったのか。ゲスの勘ぐりをいえば、千年昔、平安時代に創作された最高の文学作品とゆうたかて、よう考えたら「雅なポルノグラフィー」とちゃいますか。しかし、今さら「源氏物語」を王朝ワイセツ文学というわけにもいかず、ほんなら、ホンマはこういう本なんやで、とシモジモにもわかるように脚色したのが「私本・源氏物語」である。さらにソフトに表現するために大阪弁でごまかした。
 
 もう一つの勘ぐり。田辺センセは新・源氏物語を書くために平安時代の生活、風俗の細部まで猛勉強したにちがいない。しかし、その大量に仕入れた知識すべてが源氏物語に取り入れられるものでもない。それらがデッドストックになるのはもったいない。だったら、パロディを作ってそこで書いたろ。で、「私本・源氏物語」を書いた。
 
 たとえば、当時の貴族はどんなトイレを使ったのか、についてウンチクを述べている。大のほうは漆塗りの四角い箱で・・専任の処理係がいて、云々と「見てきたように」詳しく書いてある。そもそもあの大層な衣装(装束)を着てのトイレだから、一回毎に難作業となる。「厠」という設備がなかった時代に十二単を召した姫君が一人でトイレを済ませるなんて不可能なこと、誰でもわかる。
 
 食事のこともえらく詳しく書いてある。しかし、サイド情報なので本編に書く必要はほぼ無い。もったいない・・で、パロディ版に書いた。 この本読んだ人は本物「源氏物語」は読まない(読めない)。「源氏物語」読んだ人はこんなアホくさい本読まない。そやけど、どっちにアクセスするかはあんたの自由でっせ。好きなほう読んだらよろし。これが田辺センセのメッセージではないかと勝手に判断したのであります。(1985年 文藝春秋発行)
 

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酒井順子「金閣寺の燃やし方」を読む

 ものすごく深刻で悲しい話なのに、なんですか「金閣寺の燃やし方」なんてふざけたタイトルは。センセ、酒井順子のイチビリを懲らしめとくなはれ。センセとは三島由紀夫水上勉のことであります。

 

 昨年暮れ、図書館へいくと「三島由紀夫没後五十年」で作品の特集展示をやっていて本書が展示されていた。こんな本があるとは知らなかったので、わ、ラッキーとニンマリして借り出した。何がうれしいのかといえば、自分は三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉金閣炎上」の二冊を読んだことがあり、この本は両書の成立、解説をした作品だから。

 

 ふざけたタイトルはいかにも酒井さんらしいセンスで、他の作家なら絶対こんな題名にはしません。著者は三島由紀夫ファンだと言ってるので作品の評価は三島寄りになるのかと思いきゃ、本書では水上応援団になっている。dameo 自身の読後感、感銘度でも圧倒的に水上ヨイショ側なので、さらに酒井ファンになってしまった。

 

 金閣寺放火事件は昭和25年7月に起きた。犯人は寺の徒弟であった林養賢。放火の動機は、表向き厳しい戒律のもとに維持されている禅宗寺院が実際は高僧まで堕落した生活に明け暮れていることへの反感だったといわれる。さらに林は生来吃音であることや病弱な身体から人生の将来に絶望していた、とされた。当人は放火後、自殺するつもりだったが大文字山の山中で逮捕された。

 

 この大事件を二人の作家がそれぞれのイメージで描いた。三島は放火の動機を「美への嫉妬」などとして小説に、水上はドキュメントとして犯人の不遇な生い立ちに肩入れして執筆した。表向きの印象をいうと、文章は三島のほうがずっと上手でなめらか、対して、水上の文はのつこつして、つっかえるという感じ。車にたとえたら、三島はベンツ、水上はエンストを起こしそうなおんぼろ軽トラックという感じだ。

 

 しかし、読後の感銘度では水上「金閣炎上」が断然勝る。水上と犯人が同郷(若狭の寒村)だということが強い共感を呼ぶ。犯人の出生地である成生(なりう)という集落の細々した描写を読み、地形図を購入して犯人の育ったお寺の位置や自然環境を確かめたくらいである。酒井さんもこのあたりの現場調査に力を入れていて、水上と犯人が一度だけ峠道で偶然に出会ったシーンを自分が目撃したみたいに丁寧に描いている。

 

 犯人、林養賢は収監後、結核が悪化し、統合失調症も発症して衰弱し、27歳で亡くなった。唯一の肉親だった母親は事件直後、警察に呼び出されて事情聴取された。そのときの衝撃が大きく、帰宅するべく乗った山陰線の列車が保津峡を通過時にデッキから飛び降りて自殺した。


 金閣寺保津峡トロッコ列車・・観光客で賑わう有名観光地が薄幸の母子の悲劇の現場であったことを知る人はもうほとんどいないのではないか。70年昔の事件ですからね。(dameoは放火事件のことを新聞報道でかすかに覚えている)

 

三島由紀夫水上勉、い ずれもファンの多い作家だけど、両方とも好きという人は少ないような気がします。関心ある人は「金閣寺」と「金閣炎上」読み比べてみてはいかがでしょうか。同じテーマを扱いながら、作家の個性の違いがくっきりとあらわれている作品です。(参考・三島由紀夫金閣寺」1956年発行  水上 勉「金閣炎上」1979年発行)

 

追記: 昨日(5月3日)滅多に見ないEテレ「100分de名著」で三島由紀夫の「金閣寺」を取り上げていました。ゲストは三島に傾倒している平野啓一郎。三島の文体の魅力を上手に語っていて納得できた。あと三回あるので三島ファンにお勧めします。写真は番組のワンシーン。

 

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ウオーキング・観光

JRさん「青春81きっぷ」は・・どない?

 コロナ禍で空前の大赤字を出しているJR各社、コロナが去っても急速に業績回復する見込みはなく、テレワークの定着等の事情もあるから赤字を解消だけでも大変な苦労が予想されます。そこで、新しい投資をしないで業績アップを図るにはどうしたら良いか。 dameo が考えたのが表題の「青春81きっぷ」です。


 なんじゃ、それ。現行「18きっぷ」の売り上げを大幅に増やすための逆転の発想・・といいたいけど、逆転は数字だけで企画内容はそこそこマジメなものです。アイデアのツボは現行18きっぷの使い方を大幅に変えてシニアを対象にした仮称「81きっぷ」をつくり、現行18きっぷの十倍、百倍の売り上げを目論みます。販売システムだけの変更なので新規投資は不要です。


 青春の名に反して販売対象は65歳以上のシニアに限ります。夫婦の場合、どちらかが65歳以上ならOKです。価格は現行きっぷの3割高の1万5千円。
(5日間ぶん)そして、新発想として、新幹線や在来線特急の利用ができるようにします。但し、新幹線(自由席のみ)の乗車は一日に300キロまでと制限する。その代わり、特急券は在来線も含めて5割引とします。当日中に300キロ以上乗車したら、乗り越し距離は普通料金を支払います。


 新幹線の利用制限300キロは、たとえば東京~豊橋間の距離になります。これを「定価」で乗車すると約9000円。それが81きっぷでは約5000円になり、定価より45%安くなります。特急券の販売は予約なしで、システムの変更がいらないよう、すべてアナログ(手売り、車内販売)とします。
 安い代わりに制約があるのをマイナス思考でとらえるのではなく、新しいプランを生む下地と考える。「18きっぷ」がまさにそうでした。


 もう一つ大事な改革は利用期間。18きっぷはせこい制限があるけど,これを廃して盆と正月以外はいつでも使えるようにします。一方、新しい規約として利用者にはマイナンバーカードの携行を義務づけ、事故や急病時の対応がスムースにできるようにします。(きっぷ購入時にも提示が必要)


 旅好きのシニアのみなさん、このアイデアどうですか。魅力の有無の判断には「ジパング倶楽部」システムとの比較がわかりやい。乗車券も特急券も3割引で乗車距離に制限がないジパング倶楽部と、割引率は大きいが移動距離に制約がある81きっぷ。(注)ジパング倶楽部は年会費が必要です

新81きっぷは、18きっぷとジパング倶楽部両方の「ええとこ取り」をするような発想です。これでシニア対象に売り上げ増を目論みます。


 筆者は鉄道ファンではありませんが「青春18きっぷ」の将来は暗いと思ってます。減便や運行距離の短縮で年々不便さが増してる。利用者にとってはコストパフォーマンスが悪化している。放置すれば、いずれ愛想を尽かされて無くなるかもと思っています。ゆえに、打開策として、3セクや地方私鉄との連携など考えるべきとおもいますが、JRにはサービス向上を利用者目線で考える社員はいないから無理でせう。万年「上から目線」の会社です。


 18きっぷ、81きっぷ、ジパング倶楽部・・と選択肢をふやすことで旅好き人間を増やすことができると思います。この難儀な局面で一番大事なことはとにかく「空席を埋めること」ではないでせうか。空気を運んでも一円の儲けにもならない。人が動くことで経済が回る・・コロナ禍で身に染みた大教訓を糧にJRも少しは変身してほしい。


<追記> 1万5千円の「81きっぷ」を年に百万冊販売すれば150億円。実際の消費を一日1万円、5日で5万円として、この半分がJR費用とすれば250億円(2万5千円×100万冊)JRの総赤字額から見ると「焼け石に水」的な小さい売り上げですが、「18きっぷ」に比べたら何倍もの売り上げ増になると思います。 

 

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