野呂邦暢の作品を読む

諫早菖蒲日記

■夕暮れの緑の光

 

 作家にも、地味タイプと派手タイプがあるとすれば、この人はジミ派の代表。作品がトップセラーになったとか、映画化されたといった世俗的話題には上らないまま、1980年、42才で急逝。しかし、そのジミな作品を愛するファンが多く、今回読んだ2冊も、没後30年を機に、再編集、発行されました。1974年(昭和49年)「草のつるぎ」で第70回芥川賞を受賞。

 

諫早菖蒲日記
 著者が長崎県諫早で借りて住んでいた家が、実は幕末の諫早藩の中級武士(砲術指南役)の家であった。その土蔵から見つかった砲術書などの資料に興味をもってイメージを膨らませ、武士の娘の目線で当時の世情を描いている。こういうきっかけで小説が生まれることもあるのですね。

 

想像力と創造力、この二つがかみ合って、まるで自分の先祖の生きようを描くように話が展開されるのですが、正直言って、最初の数十ページは退屈しました。しかし、武士や庶民の暮らしぶりの丁寧な描写に付き合ううちに、わずか1~2行の文を書くために、作者はどれほど歴史資料を渉猟し、裏付けをとり、表現に気遣いしているかを察して、なんか頭の下がる思いさえして、以後、すいすいと読み進んだのであります。

 

歴史小説ははじめてという作家にとって、また、描くのが自分の故郷であるために、いかほど神経を消耗したか、ヒシと伝わります。会話での方言の扱いかたなど、クレームが出やすいだろうから、あれか、これかで呻吟したのではと察します。一方、江戸時代の諫早の地形、埴生の描写なんかは、まるで昨日見てきたかのような、リアルで細かい表現がなされていて、この人、かなりの地図ファンでは?と勝手に想像し、親近感を抱いたのでした。
 

■夕暮れの緑の光
 1970年代といえば、まだ文学青年という言葉が死語になっていない時代、あるいは末期だったかもしれない。本書を読むと「文学青年のアンカー」みたいな著者が、もうブンガクなんかでメシは食えんのとちゃうか」と察知しながら、しかし、文学青年的ライフスタイルから足を洗えずに、名もなく貧しく、しみじみと暮らすありさまが伝わります。


妙にホッとする文がありました。同郷の詩人、伊東静雄の詩は難しくてワカラン、と書いているくだり。そーか、プロの作家にしてなお難解な詩であれば、ド素人の自分なんかチンプンカンプンは当然、しゃーないちゅうもんや。野呂センセイに限らず、伊東静雄の詩の難解さは、イメージの飛躍しすぎで、ついて行かれへん、ということでしょう。(作った本人しかわからないのでは?)


無知ゆえの偏見を言わせてもらえれば、伊東静雄の詩は韻律のかっこよさが魅力であり、内容の理解云々は、ま、ちょっと脇へ置いといて・・ではありませぬか。ご本人も自作の朗詠が好きだったそうだから、全くの見当ちがいではないと思うのであります。

野呂邦暢の紹介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E9%82%A6%E6%9A%A2

 

f:id:kaidou1200:20220413221133j:plain