連日、ニュースで報じられるウクライナの戦場シーンを見て幼時の記憶が蘇る。戦争で米軍にボコボコにされた大阪の廃墟風景であります。ウクライナの廃墟風景は、ミサイル、ロケット弾、砲撃によるものだが、東京や大阪など都市は空襲によって廃墟にされた。兵器は爆弾と焼夷弾だった。少数の運の悪い人は機銃掃射で亡くなった。
下の写真を見て空襲を思い出せる人はもう百人に一人いるかどうか・・。もしや,自分の年令(1939年生まれ)が記憶可能な限界かも知れないと思って、4年前<1945年 大阪大空襲>というノートをつくった。5歳から6歳で経験したことの場所と時系列をできるだけ詳しく調べてノートにまとめるのが目的で半年くらいかかってつくった。他人に伝えるためというよりは、まず、自分が納得したい、というのがホンネだった。ということで、幼時のわずか半年間の戦争体験記がワンポイントの自分史=遺書になった。半年間の世界一周旅行の体験記と天地の差がありますなあ。
図書館やピース大阪(戦争資料館)で資料にあたってあれこれ推察する作業は、なんかミステリーを解くような楽しい作業でしたね。一番救われたのは家族に死傷者が無かったことと、低年齢ゆえに恐怖感や悲しみが脳のメモリーに刻まれなかったことです。東日本大震災の被災者でも、6歳と12歳では心に負う傷の深さはずいぶん違いがあると思う。
白黒写真しかないけど、炎上、廃墟シーンはそこそこリアリティがあります。ほとんどが知ってる街の風景なので廃墟と今の風景の違いがわかります。
「空襲」という文字を見て具体的にイメージ出来ない人は、それだけで dameo よりシアワセな人といえます。但し、この先も「空襲」がないとは言えないでせう。日本の隣国は概ね敵対国ですから。
難波東方から北方向の風景 左奥の大きなビルは大丸百貨店 心斎橋店
毎日新聞から見た大阪砲兵工廠の爆撃風景 右端に大阪城天守閣が見える
ミナミの中心、戎橋と右手は松竹座、左のビルは現在「かに道楽」本店に。
戎橋の「グリコ看板」上部あたりから北を見る。通りは心斎橋筋。橋とビルのあいだの道が宗右衛門町通り。
多忙の手塚治虫センセは風景の描写に上の写真を使った。考える時間が省けます。
作品は「アドルフに告ぐ」だけど読んだ覚えが無い。
爆弾で破壊された住宅と倉庫 堺市
焼夷弾は日本の木造家屋焼却用に開発されたアイデア商品、いや兵器で、とても合理的な設計になっている。長さ50cmの弾を38本束ね、上空5000m以上から投下して
地上500mでバラけると同時に着火する。計算では50平米に一発の割合で投下するため、爆撃機の編隊飛行にもきびしいワザが求められた。自宅が焼失した6月15日の空襲では大阪市と尼崎市の一部を目標にB29が440機来襲して3000トンの焼夷弾をバラまいた。
焼夷弾で燃え上がる北新地の木造住宅・店舗。昼間の撮影だが黒煙が5千メートル上空まで覆い、夜のように暗い。煤混じりの雨が降って顔も衣服も黒く汚れた。
B29の墜落現場を見物
あいまいな記憶が多いなかで、二つのシーンは動画ふうのリアルな記憶がある。ひとつは、自宅から300mほど離れた四天王寺の五重塔の炎上、倒壊シーンを見たこと。もうひとつは下の写真、爆撃機B29の墜落現場を見物したこと。
墜落の翌日か、翌々日に父に連れられて動いてる市電を乗り継いで出かけた。場所は中央区の堺筋と周防町通りの交差するところ。生まれてはじめて間近に見る飛行機が「残骸」だった。ここで機関銃の銃弾を一ヶ拾った。(10年くらい持っていたように思う)今回、資料で調べてみると、口径12,7ミリの「汎用製品」だとわかった。戦闘機、爆撃機で共用する量産品。
もう一つ、調査でわかったことは、このB29を墜落させた高射砲が難波の高島屋百貨店の屋上に据えられた高射砲だった。ホンマか?とマユにツバしたくなるのですが、複数の記録がありました。B29の乗員は全員死亡した。現場の住民の犠牲者数の記述は見つからなかった。
決定的瞬間
左上・サーチライトに照射されながら墜落するB29機。他の白い線は焼夷弾の光跡。(朝日新聞 撮影)
堺筋の墜落現場 ここで機関銃の銃弾を拾った。
写真の主な引用元 「写真で見る大阪空襲」ピース大阪発行(2011)
ピース大阪の案内 https://www.peace-osaka.or.jp