3月11日(水)島原へ
昨日より寒さがゆるんで快適なウオーキング日和です。今日は島原へ行きます。JRで諫早駅まで行って島原鉄道に乗り換えますが、一駅ぶん歩いて、途中の公園で伊藤静雄の詩碑と石造りの眼鏡橋を見て本諫早駅から乗車します。
運賃表見てプギャー!!。島原まで39キロで1280円!ホンマか・・・?と、何度も見直しました。阪神電車なら、梅田~元町32キロで320円、3倍以上です。でも、1時間に一本、一両で運転してガラ空きという有り様ではこの運賃でも、トントンか赤字でせう。むろん、ワンマン運転で、途中駅は無人、半分くらいは駅舎もないというビンボー鉄道です。
保存された火砕流被災現場を見る
島原駅で降りてバスに乗り換え、数キロ南の「道の駅 ふかえ」で下車。ここには、1991年6月に発生した雲仙普賢岳(平成新山)大火砕流と土石流で埋没した民家が10棟くらい保存されています。役所の指示で避難していた住民にはほとんど人命被害がありませんでしたが、定点と呼ばれた、山に近い観測地にいた報道関係者や学者、消防団員など44名が火砕流に呑まれて亡くなりました。
島原に大きな災害をもたらした二つの山。
左が平成新山(1483m) 右が眉山(約700m=次回に掲載)
平成新山の山頂 少し水蒸気?を上げている。
火砕流で埋まった民家
海岸に近い集落だったので、火砕流の温度は下がり、流れもゆっくりで、家屋はバラバラにならなかった。
大型テントの下で保存されてる民家。
*****************************
1991年6月に起きた大火砕流の画像(ネットから引用)
もう記憶は薄れつつありますが、公開画像を集めて、当時の恐ろしい光景を再現します。
噴火が続いて溶岩が貯まっていく
数百度の高温を保ち、時速100キロで山麓に向かう火砕流。(空撮)
必死で逃げる人、消防車。
山麓の大野木場小学校わきを流れる火砕流。もう数十メートル手前にずれていたら、大惨事になっていた。
火砕流の高熱で焼けただれた教室。板張りの床が無くなっている。
島原の街の中心部は直撃を免れたが灰まみれに。
堆積した土砂は、大雨で土石流となって再び襲う。
(いずれも1991年6月に撮影された画像です) ~つづく~