坂野昭彦「一文無しが贋札造って捕まって」を読む

 2005年3月、埼玉県で偽一万円札が流布した。のべ50枚見つかった半年後に容疑者が捕まった。その本人、坂野昭彦が書いたドキュメンタリーであります。犯罪歴などない、ごく普通の市民が事業の失敗から経済的に破綻し、追い詰められていく。離婚して妻子と絶縁し、認知症の母親は介護の末に亡くなって孤立無援になる。


もう金を工面する術は尽きた。最後の選択肢は・・

・ホームレスになる。
・自殺する。
・犯罪で金を得る。 の三択だった。

 当時58歳だった彼には、生活保護の申請という発想はなかったらしい。そして、最後に手元に残った一万円札を見本に、パソコンとスキャナーを使って贋札をつくる。カラーコピー機を使う方法よりずっとハイテクであったが、結局バレて捕まった。もともと小心なタチだから、はじめてタクシーで偽札をつかうときは缶酎ハイ2本をがぶ飲みして乗車した。2500円ぶん乗って停車させ、札を渡すときは喉がカラカラに乾き、手が震えた。


しかし、本書は偽札づくりの解説書ではなく、約4ヶ月に及ぶ留置所暮らしのレポートであります。昨日までふつうの市民がいきなりタイホされてブタ箱に放り込まれたときのカルチャーショックと雑居房で出会うプロの犯罪者との同居生活のありさまが克明に描かれる。克明なのは初めから詳細な日記をつけていたから。文体もまるで小説みたいでとても読みやすい。


偽札づくりは惜しくも?失敗したが、文才を生かして本書を著し、2008年の「幻冬舎アウトロー大賞」を受賞した。マッタク、人間の運命はどう転ぶか分からない。もう一つの大ラッキーは、偽札造りという反社会的犯罪を犯しておきながら、求刑は懲役4年だったものの、判決は懲役3年、執行猶予5年で刑務所送りを免れたこと、こんなに軽くて委員会?という気がするけど、この格段の情状酌量は恐らく彼の人柄、人徳によるものと察する。


留置所暮らしで接する、担当刑事、看守、弁護士、検事、同房のワルの面々、すべてに誠実に接し、悪印象を持たれずにいると刑期が軽くなることもあるという見本でありませう。こんなことは意図してやってもバレるからプロの犯罪者にはできない天然ワザと言える。あのライブドア事件ホリエモンだって、服役中はチーンとおとなしく模範囚ぶりを示していたのかもしれない。


留置所と刑務所とでは待遇がどれくらい違うのか。本書は留置所だけのレポートだけど、一番の違いは労役がないことでせう。それと、同房者が毎日のようにコロコロ変わって落ち着かない。三食昼寝つきを狙ってホームレスが小さいモメごとを起こして入ってくることもある。それを「志願兵」というそうだ。そんなオッサンが強面のやくざより嫌われるのは最高に不潔で臭いからで、彼が風呂に入るときは、仲間はみんなキャンセルするそうだ。同じ湯船に入りたくない気持ち、ワカリマス。


ちなみに、風呂は2週間に3回。食事は弁当式でおかずはコロッケが一番多い。お茶は出ず、お湯か水だけ。これは辛そう。一方、お金を出せばおやつを買うことができる。一回で千円分買えるが、アメとかせんべいとか品目の指定はできない。近所のコンビニが金額分見繕って届けてくれる。本や週刊誌も買える。回し読みするが、具合の悪い記事は切り取ってある。著者は「週刊文春」「週刊新潮」のファンだった。なんか駄目男と似てますな。


サラリーマン、商売人問わず、現役時代に一度も失業の憂き目に遭わずに過ごせた人はそれだけで十分幸せだと言えます。昇進が遅いとか給料が安いという不満も「失業」の恐怖に比べたらチョロイ悩みではありませんか。まして、苦労は多々あるにせよ、生涯一つの会社勤めで定年を迎えたなんて最高に恵まれた職業人生でありませう。令和の時代、そんな身分でリタイアできる人は、公務員を除けば百人に一人か二人ではと想像します。(2009年4月 幻冬舎発行)

 

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