同著者の「西行と清盛」を読んだことがあり、とても面白かったので本書も期待して読んだところ、アタリでした。芭蕉の作品論や伝記は山ほどあるけど、あくびなしで読める本はない。著者はそこを意識してか、「退屈しない芭蕉論」を目指した。まず、題名からして「悪党芭蕉」であります。もちろん尊敬の念も含めて悪党呼ばわりしているのですが、ふつうの文学者、作家はこんなエグイ題名つけられないでせう。
・・といって本書は小説ではない。基本、ドキュメントであります。波瀾万丈の冒険話などあるはずもなく、地味に語りながら読者にあくびをさせない。ここんところが嵐山センセのえらいところです。話のネタは・・・
・当時の世相と俳諧事情
・作品論(芸術論)
・芭蕉のプライバシー で、これらをミックスして芭蕉の人物像を描く。
芭蕉の最高傑作とされる「古池や蛙飛び込む池の音」。この句の鑑賞と解釈はゴマンとあるが、嵐山センセはこう述べている。この句は情景の写生ではなくフィクションである。多くの人は「蛙が飛び込む、ポチャンと音がする」場面を経験していない。しかし、名作ゆえに小中学生の頃からこの句は学んで知っている。上の「古池や」で静寂の場面を想定し、そこで蛙が飛び込むとポチャンとかすかな音がする・・この場面を誰しもが観念としてもってしまっており疑わない。実は芭蕉自身も「蛙飛び込む水の音」をリアルに経験していないのに、この場面をイメージしてしまった。つまり、フィクションである。
実際の蛙は蛇や人間の気配に驚く場面以外は石や木の枝からポチャンと飛び込むことはなく、するりと水中に潜り込む。静まりかえった場面でポチャン、はあり得ない。・・と嵐山センセは述べるのであります。実は、かの芥川龍之介も芭蕉の芸術はマユツバものと考え「続芭蕉雑記」で「芭蕉は三百年前の大山師」だったと批判している。芭蕉の名作にもこんな解釈、評論があるのか、と知り、己の凡愚を悟らされるのでありました。
嵐山センセ乾坤一擲のニュー芭蕉論、楽しく読了できました。しかし、芸術論とは無関係のことで大きな疑問を覚えたことがあります。それは当時の情報伝達能力のことです。ご存じのように、江戸時代は遠方の人に情報を伝えるには飛脚便しかなかった。人間がえっちらおっちら早足で手紙を届けるシステム、当然、現代の郵便に比べて何倍もの時間を要した・・と思っていたのに本書の記述では文字通りの「飛脚」ぶりになっている。これホンマか?。
実は今年の春からJPの内部事情によって郵便物の配達が遅くなり、隣町、隣府県でも投函日含めて平日で三日を要することになった。さらに、土日祭日は配達しない。たとえば、9月22日(木)に投函すると、宛先が隣の町でも到着は26日(月)になる。実に5日を要するのであります。21世紀に至って現代郵便制度は300年前の飛脚便に劣るシステムになってしまいました。
本書のラストシーンは大坂・船場で芭蕉が客死し、遺言に従って弟子たちが大急ぎで遺体を大津の義仲寺へ運んで葬儀を行う様子を描いています。
元禄7年(1694)10月12日・・午後4時頃、芭蕉死去。舟で淀川を上り、伏見港から陸路で大津市の義仲寺へ。13日に到着、葬礼。芭蕉を慕う人300人が集まった。(こんな大勢が芭蕉の死をどうして知ったのか)
10月14日・・同寺の木曾義仲の墓の隣に埋葬した。
10月18日・・同寺で追善句会が催された。京都、大津、膳所、大坂、伊賀から門人計43人が参加した。主役は高弟の基角、と本書に書いてあります。
この段取りの良さ、スピーディーな行事進行ぶり、現代と変わらないのでは、と思いませんか。電話、電報、メール、ネット、新聞、テレビ、ラジオ、などの通信、広報手段が一切無かった時代です。・・というか「無かった」こと自体を現代の私たちは想像できない。
疑問の最たるものは18日の追善句会です。12日、芭蕉死去。13日に「芭蕉死す」の一報を50~100通、手書きして飛脚に託す。一番遠い地は三重県伊賀上野。大坂や京都と違って伊賀は田舎だから日数がかかる。もし、到着が16日だとすれば、大急ぎで旅支度をし、17日の早朝に発って大津の膳所へ向かう。最短路は行程のほとんどが山道、距離は60kmくらいある。だが、18日の追善句会に出るためには17日中に到着しなければならない。ものすごいハードワークではありませんか。伊賀者だからといって皆さん忍者ではあるまいし。
芭蕉の辞世「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。夢ではなく、訃報を知った芭蕉の門人たちはリアルに汗だくで駆け廻ったのであります。(大活字版 底本は新潮社発行)