佐伯泰英「惜櫟莊だより」を読む

 知人のIさんが「あんた、こんな本、好きやろ」と持参してくれたので佐伯泰英の本は読んだことないけど、断れずに預かりました。Iさんはモーレツな佐伯泰英ファンで、今までに購入、読破した作品が170冊というから、もう著書はほとんど読んでるといってもいい。新刊が出ると内容は問わず、買わずにおれないのはもはやビョーキではありませんか。


開けてみれば時代小説ではなくて(ホッ)著者はじめてのエッセイで、惜櫟莊(せきれきそう)という熱海の別荘を買い取り、修復、保存するいきさつと工事内容を綴った読み物なので、楽しく、一気に読破したのであります。(櫟=くぬぎ)


著者は仕事場として熱海の別荘地に居を構えているが、そのすぐ下に瀟洒な和風住宅があり、これが開発業者に売り渡されるという情報があった。ふだんから気にしていた建物なので調べたら、所有者は岩波書店の社長、設計者は近代数寄屋建築の第一人者、吉田五十八とわかり、俄然、売却解体なんてとんでもない、守らねば、との思いに駆られる。


ハヤイ話が、著者がこの物件を買い取り、築70年の老朽住宅を復元する、苦心物語であります。単なるリフォームではなく、全部解体して更地に戻し、基礎からやり直す。しかも、材料は瓦一枚まで古いものを再利用したい。すなわち、吉田五十八の設計思想をまるごと再現するのが目的の大改装であります。あの薬師寺東塔の解体、復元工事の民家版といっても良いくらいの大難儀工事です。でなければ、こんな分厚い本を書く気になりませんわね。


その工事の中身を書く紙数はないけど、感銘を受けたのは、施主である佐伯氏は無論のこと、工事を請け負った設計者、棟梁や職人すべてが、吉田五十八の美意識や繊細な感性に共感し、それをカタチで再現することに苦労をいとわないことです。困難な仕事であるほど情熱を燃やす、半端な妥協はしない。予算が・・という言い訳もしない。


・・と書けば、ずいぶんカッコイイ話しに聞こえますが、実際、この仕事に如何ほどの費用がかかったのか、貧乏性、駄目男は気になります。しかし、本書にはお金のことは一切書かれていないので不明です。不動産の買収費用と工事代、合わせてン億円でありませう。今どき、金に糸目をつけずにこんな贅沢をする人は珍しい。


本書には、不遇な時代の思いで話もいろいろ書いてありますが、人間関係でいえば、作家の堀田善衛との付き合いが一番濃密で、スペイン在住の時代、著者は堀田善衛の使用人、お抱え運転手だったそうであります。
 スペインで付き合ったアーティストも多いが、少々驚いたのは、画家のグスタボ・イソエ(磯江毅)とも10年くらい交流したこと。この人は駄目男の高校の後輩で、二十歳のとき、単身スペインに渡り、マドリード・リアリズムに共鳴して、狂気のなせるワザとしか思えないような独自の写実作品を描いたが、53歳の若さで亡くなった。


巻末にさらっと書いてあることに、佐伯泰英の著作の発行部数が累計4000万部を越えたと。その殆どが、時代小説に転向したあとのヒット作品という。大手出版社がバカにしていた「文庫の書き下ろし」という、半ばやけっぱちの作戦が功を奏して今や出版界の牽引役であります。惜櫟莊の購入、復元工事企画は、文化財保存への使命感と読者への感謝の気持ちが相半ばしていると思います。(2012年6月 岩波書店発行)


なお、吉田五十八が設計した建物で大阪近辺のものには「大和文華館」(奈良市)と「中宮寺本堂」(斑鳩町)があります。


佐伯泰英ウエブサイト
http://www.saeki-bunko.jp/index.html