今までたくさんの京都論や京都エッセイを読んだが、これはなかなか楽しい本であります。何が楽しいのかといえば、タイトル通り、東京都というみやこと京都というみやこをテーマごとに対比させたうえで酒井流京都論を構成している点です。男が書けば、比較文化論になるところ、あくまで生活者感覚、ビジターの視点で書いてるので、親近感を覚えます。
たとえば、79頁「比叡山と東京タワー」(青文字は引用部分)
東京には空がない・・とかつて智恵子は言ったそうなのですが、(略)なぜ、智恵子がそう感じたのかといえば、東京には山がない・・からなのではないかと、私は思うのです。山というのは、空を美しく見せるためには最も効果的な小道具、というか、大道具です。
枕草子の、あの有名な最初の段には「春はあけぼの。やうやう白くなる山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」とあるわけですが、そこに山があるからこそ、朝日の光がさえぎられて空が白くなってきたり、雲が紫がかってきたりという、色彩の妙が生まれてくる。
しかし、東京には、山がありません。(略)多くの東京人にとって山とは、普段の暮らしのなかで目にしないものです。(略)わざわざ遠くまで出かけて、やっと見えてくるものが、東京人にとっての山なのです。
山=田舎というイメージをもっている私は、しかし、京都に行くようになって、非常に新鮮な印象を覚えたのでした。・・だって、京都には、ミヤコなのに山があるのだから。それも、西を向いても、北を向いても、東を向いても、山。(略)
山は無いのが当たり前、という意識の私には、渋滞している四条通の向こうに東山が見える、といった風景は、最初のうちは不思議に感じられたのでした。洒落たカフェに入ってみたら、その窓から比叡山が見えるのですね。「ここはマチなの?イナカなの?」という感じ。
ところが、しばらく京都に滞在してから東京に戻ると、山が見えないのがどうにも寂しいのです。「なんで山がないの~?」と頼りないような気分になる。そこで感じたのは、山が人に与える包容感、というものなのでした。そこに山があるだけで、人がなんとなく手を合わせて拝みたくなるのは、やはり、山はすごく大きくて、どっしりしていて、頼もしい存在であるからでしょう。(略)
引用が長くなったけど、著者のこの感覚、思い入れぶりは、べつに登山趣味のない人でも、十分共感できるのではないでせうか。京都だけでなく、奈良や神戸の回りに、もし山が無ければ。・・と風景を想像してみると、「山の効用」は実に大きいと納得できます。大阪だって、もし、街の背後に生駒山や金剛、葛城山や、六甲山の姿が無ければ、すごく殺風景な風景になること間違いありません。これらの山並みが舞台後ろの地味な屏風のような役目を担って、干からびた都会風景に潤いを与えています。CM的にいえば、ヒアルロン山(酸)効果ってわけか。
東京にはそれがない。なので、京都の比叡山の代わりの役目を東京タワーが果たしてる・・。いささか苦しい対比でありますが、のっぺりした平野に何か見上げる形のシンボルがほしいと願うとき、無粋な鉄骨造りであっても、無いよりはマシ、新しいスカイツリーも人気スポットになること間違いなしです。日本の大都市で、山が無い、遠い、と感じるのは、東京、名古屋、千葉くらいでせうか。
ほかに「いけずと意地悪」「始末とケチ」「冷泉家とヒルズ族」「京都大学と東京大学」など、ふんふん、ニヤニヤしながら読める楽しい文があります。(2009年発行 新潮文庫)
京都四条通と東山