国木田独歩「武蔵野」を読む

 今ごろ、そんな本を読んでまんのか? と笑われそうだけど、酷暑の日々、たまには、こんなシミジミした心洗われる作品を読むのもいいかと。


 「武蔵野」は小説作品だそうですが、読めば、長めの随筆か紀行文という印象になります。明治時代中頃の武蔵野の風景の魅力をあますところなく描写していて、まあ、これ以上、上質の文章はない。堀辰雄が「風立ちぬ」で描いた信州の高原風景とともに、山野渉猟が好きな人にはバイブル的名文だと思います。


で、当時の武蔵野って何処らへん?と素朴な疑問が起きます。答えは、現在の東京都の都心も昔は武蔵野なのでありました。東京駅から30キロも離れたら、もう田舎の上にドが付く辺境の地でありました。こんなことを知るだけでも楽しい。ウソみたいな話ですが、本書の一部を抜粋して、在りし日の武蔵野風景に浸っていただきませう。


 もしそれ時雨(しぐれ)の音に至ってはこれほど幽寂のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜(もり)を越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過く時雨の音のいかにも幽かで、また鷹揚な趣きがあって、優しく懐しいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨のさらに人なつかしく、私語(ささや)くがごとき趣はない。

 

 秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ケ谷または小金井の奥の林を訪(おとの)うて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭を感じ、永遠(エタルニテー)の呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干たる時、星をも吹き落としそうな野分がすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風の音は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄い風の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。


どないです? 嗚呼、タイムマシンで明治時代に帰りたいと切実に思うのは駄目男だけではありますまい。逆に、国木田独歩が今、東京に現れたら・・。思わず、ドヒャ~~ッと喚いて気絶するかもしれない。武蔵野の雑木林の木々が超高層ビルに化けているのだから失神モノであります。他に「忘れ得ぬ人々」「非凡なる凡人」も読む。小品ながら、感銘深い傑作であります。(2003年 教育出版発行)

 
      向井潤吉が描いた武蔵野風景(戦後の作品)

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