小林秀雄「モーツアルト」を読む

 およそ半世紀ぶりに再読。モーツアルトの伝記や作品論は20冊くらい読んだけど、音楽評論の専門家ではない小林センセのこの作品が記憶に止まっているのはなぜか。文章は上等とは言えないのに、なんか説得力がある。これです。
 本書でいちばん知られている文章は、<モーツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海のにおいのように「万葉」の歌人がその使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい>。そのかなしい旋律の例として交響曲第40番第4楽章の冒頭のメロディを楽譜を掲げて説明した。


交響曲のワンフレーズの説明に万葉集を持ち出す。こういう発想は音楽の専門家はできないぶん、妙に説得力がある。音楽ではなく古典文学の切れ端一つでモーツアルトファンは「ほんまやなあ」と納得してしまうのであります。
 すると、別のところで<モーツアルトは転調のワザが上手い>と述べていると「そやそや、同感」となり、小林節に感化されてしまうのであります。


当作品が発表されたのは1946年(昭和21年)終戦直後のドサクサ時代だった。ということは音楽再生はSPレコードしかなく、むろん、ライブの演奏会など皆無だから、いかにモーツアルトに惚れ込んでいても音楽鑑賞には最悪の環境だった。そういう世相においてモーツアルト作品のデリカシーを語るのだからよほどの想像力がいる。むろん、文献だって現在と比べたら百分の一くらいしかなかったはず。そんな、ないない尽くしの時代に、かつ、音楽専門家でないのに堂々と世に問うた「モーツアルト」論。
 

80年近く経た今、この「モーツアルト」が内容に誤謬多とか時代感覚が古すぎるという批判を聞いたことがない。実際、今回再読して時代錯誤を感じた文章は皆無でありました。もしや、あと100年くらいは情報価値があり、昭和時代に書かれた最良の音楽論として「古典」扱いされるかもしれない。世のモーツアルトファンの皆様、ぜひ読んでみて下さい。(平成15年 新潮社発行)