遠藤周作「ルーアンの丘」を読む  

 ルーアンはフランスの都市の名前。本書の略図で見るとパリの北西、セーヌ川下流にあたる。著者が戦後初の仏蘭西留学生として訪れ、三ヶ月ほど滞在したところだった。かのジャンヌ・ダルクはここで短い生涯を終えた。


 27歳の遠藤センセが書いたのだからロマンチックな物語のはずと思ってページを開くとサブタイトルは「赤ゲットの仏蘭西旅行」だって。さらに第一章は「いざ、エケチットの国へ」(エケチット=エチケットのもじり)やて。
 なんのことはない、後年の自称「弧狸庵山人」が書いたユーモアエッセイとおなじ雰囲気のドタバタ失敗話が続きます。あこがれのおフランスへ行くことが当時はいかに難儀なコトだったかが描かれる。なんせ昭和25年(1950)という戦後復興期で外国旅行は船しか使えなかった。おまけに客室は船底の難民を詰め込むような窓のない雑居部屋でありました。(この年、朝鮮戦争勃発)


横浜からまる一ヶ月かかってマルセイユに到着。ヨレヨレになって向かったのがルーアンでここのロビンヌという家庭に下宿した。幸い、夫妻はとても親切で優しい人だったので遠藤センセは大感謝、特に夫人はフレンドリーに接してくれた。当時はまだ日本人を敵国人とみなすのが普通だったから、もし、この夫妻との幸福な出会いがなければ、フランス人、フランス国家に対するイメージが違ったかもしれない。


大学で仏文を学んだからフランス語の本はそこそこ読めるが、会話は経験乏しく苦労したらしい。ま、仕方ないです。読み進むと、50頁を過ぎるあたりから今までの面白話、失敗談は消えてゆき、だんだんシリアス、センチメンタルな文章になってきます。女性が登場するからです。おまけに彼の地のカトリックのイメージが自分のそれとしっくりしない(著者は12歳のとき兵庫県夙川の教会で受洗していた)


・・・にしても、ヘタなフランス語でどうやって女性を口説いたのか気になります。映画で見るようなキザな台詞を吐いたのか。似合わないなあ(笑)。そこんところの苦労話を書けば面白いのにぜんぜん無いのであります。後半に出てくるフランソワーズという女性は魅力的な描き方をされ、相思相愛になって彼女が日本を訪ねることも一度ならず、という関係だったのですが、悲しいかな癌を患い、亡くなってしまいます。「弧狸庵」ファンはこんなこと知らなかった。


遠藤周作が亡くなって一年後、遠藤順子夫人は周作の日記帳を見つけた。そこには周作と彼女が旅行したことが書いてあった。なのに夫人は怒らなかったそうだ。その理由がかいてあるけど、もしや、この日記、遠藤周作ではなく弧狸庵が書いたのではないか。dameo は疑っているのであります。(2017年 PHP研究所発行)

 

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