狩野博幸「江戸絵画の不都合な真実」を読む

  こんな地味な本、誰が読むねん、と思って手にしてみたら、いやもう十分に面白い。読んでヨカッタと得した気分にりました。江戸時代の著名な絵師の人物像を著者独自の観点と評価で著しており、世に流布している「定説」 にイチャモンをつけたる、という意図があります。      


まな板に載せられたのは、岩佐又兵衛、英一蝶、伊藤若冲曾我蕭白長沢芦雪、岸駒、葛飾北斎東洲斎写楽、の八名。
 まず、ファンの数ではトップかもしれない伊藤若冲について、定説の人物像は「京都錦小路の青物屋の主人だったが、画業に専念するため、家督を弟にゆずって・・」です。好きな絵を描くために商売をさぼり、人付き合いもせず、とまるでお絵描きオタクみたいに言われています。


しかし、それは違うと著者は述べる。確かに商売からは手を引いたが、五十歳ごろのとき、市場の運営に関して奉行所から利権がらみの嫌がらせを受けたとき、若冲は町会の世話人として率先して難儀な交渉役を引き受けた。要するに政治的駆け引きに活動し、なんとか丸く収めることに成功した。決して毎日絵描き三昧に耽っていたのではないと。


次に曽我蕭白(しょうはく) 若冲とほぼ同時代の人でありますが、作品を見る限り、御しがたい奇人、変人では、というイメージを抱いてしまう。普通に伝統的な絵も描くが、派閥や形式にとらわれない、自由な発想で見る者の眼が点になるような作品を描いた。本当は変人ぶった教養人だったかもしれない。


上記八人の絵師のうち、存命中にうんと世間に嫌われたのが長沢芦雪と岸駒(がんく)の二人。長沢芦雪円山応挙の高弟で腕前の達者さにおいては何の問題もないが、彼の「自慢しい」に世人は辟易したらしい。彼は絵師には珍しく武士の家系に育った。といっても大した筋ではないのに、事あれば「武士の出」をひけらかし、上から目線で物を言う。作品の出来映えとは関係ないのに「先祖は・・」といって町人に嫌われた。


岸駒はがめつさで嫌われた。依頼主が金持ちとみると法外な制作費を要求した。しかし、それでは注文が逃げてしまう。なので、上げたり下げたり、相手を見透かしては値段を変えた。このアコギな態度は当然嫌われた。優れた有名絵師ではあるが、金に汚いという評判は都で「定評」になっていたという。


かように嫌われたのだから仕事が取れず、作品が残らなかったのかと言えば無論そんなことはない。傑作がたくさん残っている。つまり、イヤミな野郎だと嫌われながら注文がとれた。描かれた作品にイヤミがあるはずもなく、立派な芸術品である。こんな伝記を知って、だから長沢芦雪の作品なんか見たくないという人はいない。人柄が良くてヘタな人の作品が淘汰されるだけのことだ。


東洲斎写楽の正体は斎藤十郎兵衛なり
 昨年10月、このブログで島田荘司著「写楽・閉じた国の幻」という本を紹介しました。この本では、写楽の正体はオランダ人外交官という説で謎ときを試みていました。しかし、本書で著者、狩野博幸氏は写楽は斎藤十郎兵衛なりと断定しています。他の説はゴミ扱い、江戸の文化史に精通していない作家や学者が、あーだ、こーだと自説を開陳するなんてちゃんちゃらおかしいというわけです。さよか、すんまへんな。


写楽の正体はこの男だと候補に挙げられた人物は、昭和20年以後だけでも20人を越えるそうだ。70年を経てようやく沈静化し、写楽=斎藤十郎兵衛説で落着するのか。でも、各説を唱えた人は簡単に引き下がらないでせう。

 

岩佐又兵衛の生涯も興味深い。この人の父親が伊丹城主、荒木村重だったとは知りませんでした。信長に背いて失敗し、一家皆殺しにされるなか、かろうじて逃げ延びたものの、この惨劇が一生のトラウマになり、画面血だらけの復讐物語の絵巻物をつくる。
 又兵衛の子の一人が長谷川等伯の養子になったとか、歌舞伎、文楽でおなじみの「傾城反魂香」に出て来る「吃又」こと浮世又兵衛は彼のことだという話も興味深い。(2010年10月 筑摩書房発行)


曽我蕭白「蹴鞠寿老図」 一瞬、何を描いてるのかわからない絵に見えますが、仰向きの長頭にして禿頭を後ろから描いた絵です。今でいえば、サッカーのリフティングをやってる場面です。(左は部分拡大図)

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