齋藤孝「読書力」を読む

 先週末に紹介した同じ著者の「本は読んだらすぐアウトプットする」よりずっとマジメな内容であります。読書は自己形成の最良の方法である、と論じる齋藤センセは、近ごろの若者が読書を軽視していることに怒り、危機感をもっている。じっさい「本は読まなくてもいい」と言う風潮がある。読書なんてしなくてもネットで十分知識を仕入れられると思ってる人が増えてきた。


センセは言う。読書力は国民の知的インフラである。読書力の高さが日本の文明、文化を支えてきたという。領土は小さく、資源もない日本がアジアにおける先進国になり得たのは、国民の知的レベル(読書力)が高かったからである。この「読書は自己形成の方法」と「読書力は知的インフラ」論にはもろ手をあげて賛成します。しかし、読書必要論はなんだか劣勢になっているのが実情でせう。数量的にも出版文化は衰退傾向が顕著だ。


読書のクオリティについてはどうか。センセの見立てはこうだ。読書好き=読書力がある、ではない。大量生産のミステリーやハウツーものの本を100冊読んだ人は読書好きに違いないが、読書力がある人とはいえない。娯楽の一つとしての読書にすぎない。本当の読書力は精神の緊張を伴う内容の本を読んで培われる。精神の糧、自己形成の糧になる本を読んでこその読書力である。


では、マンガを含めた娯楽としての読書と、自己形成に与する教養としての読書、その境目はどのへんにありんすか。齋藤センセは「司馬遼太郎あたりが境界線」という。なるほど、これは分かりやすい。多くの読書ファンが納得できる例えだと思います。逆に言えば、司馬遼太郎はこのポジションであるゆえに多くの読者をつかみ、幅広い人気を保っている。娯楽書ファンと教養書ファン、どちらにも受け入れられる作家だと言えます。


世間には、若いときからほとんど読書をしなかった。しかし、日々の生活や人間関係で困ることはなかったと考える人もいる。そういうライフスタイルも是でありますが、著者は、読まない人が増えると国民の知的レベルが下がることを懸念する。読書しない人が増えて国民の知性や道徳心がアップすることはあり得ないと。


 著者は教育者目線で読書の大切さを説いている。しかし、子供時分から読書経験の乏しい人が、読書人に劣等感をもっているわけではない。大人になって、もっと本を読んでおけば良かったと後悔する人なんて極めて少ない。そんな人に「読書で自己形成を」なんて、余計なお世話でありませう。この本自体が「余計なお世話本」といえなくもない。


 本書は久しぶりに大活字本で読みました。B5サイズで18ポイントのゴシック体、すいすいスラスラ快速読書ができて、250ページを2時間余りで読めました。視力正常の人にもおすすめします。(図書館で借用・大活字本は2012年発行)


大活字本 週刊誌と同じB5サイズ、2分冊

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