幸田 文「木」を読む

  文章の上手さに魅せられて、読み出したら止まらない。「杉の木は縦縞の着物をきている」なんちゃって、万年着物姿の著者が書けば,読者はたちまち幸田ファンになってしまうのであります。ま、文章の上手さは親の血筋といってしまえばそれまでなのですが。(父が幸田露伴


著者、最後の作品で、60~70歳代に全国の「木」を巡り訪ねたエッセイ。観光地の有名樹木は屋久島の「縄文杉」だけで、他は著者が個人的な興味から、森林関係者の協力のもと、足弱なのに深山に分け入って出会いを楽しんだ。悪路急坂は山男におんぶされての難行で、世話する側も大弱り? 幸田文でない、只のばあさんだったらキッパリ断ったでせうね。ブランドの効果大であります。


研究者や業者ではなく、作家の見る木であるから、そこは文学的観察になるのは仕方ない。それにしても感情移入がすさまじくて、木の生い立ち、処世術、死と再生など、つい擬人化して語ってしまう。さりとてコーフン状態のまま綴るのではなく、そこは抑制もされてるのですが、まあ、これほど木への思い入れの強い作家は他にいないでせう。  


いちばん感銘深いのは「えぞ松の更新」です。北海道富良野の東大演習林にその例を見ることができる。駄目男もはじめて知る木の死と再生の話です。なにしろ気候の厳しい土地、普通に地面に落ちたタネが芽を吹いて、というわけにはいかない。何百年か生きて命尽き、倒れた大木に苔が生えると、ここが新しいえぞ松の生地になる。


落ちてくる種のなかの、ほんの一部の幸運なものがここで発芽する。しかし、そのほとんどが成長できずに消えてしまう。地面でなく倒木の円周の上面に落ちた種、というから宝くじ的確率であります。生き残った若芽は腐敗が進む倒木を栄養源にして育つ。地面に落ちたのは栄養が足りないとか、日照不足で育たない。


なんとか生き残った若木は倒木の栄養で育つが、そのうちに倒木自体は完全に腐敗してカタチを失い、地面と同化する。結果、若木は一列に並んで成長する。これを「えぞ松の更新」という。親の屍が子を再生し、自らは子への栄養分となって形を消す。過酷な環境のなかで、どうしたら子孫をのこせるか。えぞ松にはこんな智恵があったのです。

おそらく何万年とか、気の遠くなるような歳月のなかで学習したのでせう。これを学者は子孫維持の高度なシステムととらえるが、幸田文には涙なくして語れない輪廻転生の物語だった。(平成7年 新潮社発行(文庫)


蝦夷松の更新(北海道 東大演習林)
倒木に苔が生え、その上に種が落ち、芽をだす

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