佐伯啓思「反・幸福論」を読む

 幸福論というのは、中身がピュアであるほど哲学的迷宮に入り込んでしまい、凡人には「で、何の話やねん」な読後感になってしまう。本書も西行トルストイやカントなんかを引き合いに出す章は、正直いって、駄目男の理解力と表現力では感想文を書くのが難儀 であります。


そこで、一番わかりやすい?、第3章「無縁社会で何が悪い」をご紹介。無縁社会と言う言葉は、NHKのドキュメント番組のタイトルに使われ、世に知られるようになったそうです。


一方、東北大震災のあと、なにやら「絆」とか「コミュニティ」という言葉がはびこり、かの大災害を機に、家族の絆や地域のコミュニティの大切さを再認識した云々という話が多くなりました。これに対して著者は「ちょいと待て、それはおかしいのとちゃうか。絆やコミュニティっちゅうのは、要するに「血縁」「地縁」のことやろ? これらは戦後の民主主義思想のなかで最も嫌われ、疎まれてきた人間関係や。個人の自由を最大限に尊重したい人間には、さっさと捨てたいもんやった。それがなんやねん、今頃になって絆やコミュニティが大事やなんて。なんで、血縁、地縁が大事やと言わへんねん。よう言わんのか」


いつか紹介した本「ソクラテスの弁明」~大阪弁版~やないけど、難しい言い回しを書くときは、大阪弁が便利でおます。たしかに、中身は同じなのに、人は血縁、地縁が大事とは言わない。もしや「絆」と言うときは、自分の家族限定で田舎の親戚のことなんか知らんもんね、かもしれないし、コミュニティとは仲のよいお友達、近所の人限定かもしれない。「縁」が運命的なつながりであるのに対し、絆やコミュニティには、言う人のエゴ、ご都合主義があるのではないか。・・にしても、本質は同じだと。ほんま、その通りですがな。


かように、血縁や地縁は、戦後の日本人には鬱陶しい人間関係と故郷の絡みであり、積極的に捨ててきたものであります。そして「個人の自由」を最優先にしてきた結果、無縁死、孤独死がどんどん増えた。当たり前のことであります。そんな死に方のどこがいけないのか。


 孤独死が大不幸というなら、逆に、自宅で家族に見守られて死ぬのが一番幸福な死に方なのか。そこに至るまでの家族の介護等の大苦労、大負担は不幸ではなかったのか。ま、もちろん、ケースバイケースではありますが。


「個人の自由」こそシアワセの元である、ということを最大限に追求した結果が孤独死だった・・。なんとも皮肉なことではあります。しかし、著者は、孤独死も家族に看取られての死も、さしたる幸、不幸の違いはないという。生命体の消滅、死=無 と考えれば、なにほどの差違もない。


戦争や飢饉が頻発した昔と違って、現代人は「自分はいつ、なんで死ぬのか」イメージしにくい。ということは、多種多様な「死ぬ原因」があることになり、かえって死生観を持ちにくい時代だという。だったら、原因がなんであれ、常に死を受け入れる覚悟が必要だ。(新潮新書 2012年1月発行)

 

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