嵐山光三郎「西行と清盛」を読む

 西行の人生を知りたいと思い探してみたが、堅苦しい内容の本が多くて読む気にならなかった。作家にも読者にも「漂泊の歌人」という先入観があって、歌論を軸にしたクソまじめな読み物になってしまうらしい。本書はカタブツ敬遠のオジン、dameo にぴったりで、著者名見ただけで、これは面白そうと思い、読んだら期待どおりでした。しかし、読み始めたころに入院するハメになり、さらに、文庫本ながら380頁もあって、読了に一ヶ月以上かかってしまいました。


職場仲間だった西行と清盛
 本書は通俗小説の類いでありますが、フィクションまみれにした筋書きではなく、一応は史実にのっとっている(らしい)。とにかく本書で描かれる西行は生涯、東奔西走、とても孤独なさすらい人のイメージはない。人生のほとんどは俗世間にまみれ、保身や損得勘定多々の暮らしぶりであり、それでなお数々の名歌を詠んだのだから歌人として天才だった。


西行と清盛という題名は両人とも天皇を護る武士=北面の武士、今で言うなら皇宮警察や公安局の要員が仕事であり、二人は同じ職場の仲間だった。この二人、水と油みたいな関係ではと思ってしまうが、性格は違うものの、仲はよかったというのが面白い。天皇に仕える武士だから腕力に優れているだけでは駄目で、天皇や貴族からなにげに「歌を詠んでみよ」と言われる場面が結構あり、がさつな清盛はこれが苦手で西行に代作を頼むのが常だった。で、一首詠むたびに金(当時は宋銭)を払う。はじめは受け取りを拒んでいた西行もいつのまにかアルバイトと割り切って受け取るようになった。


競馬「天皇賞」のルーツ
 ・・というような俗っぽい話が続くので退屈しない。ついでに書けば、競馬で「天皇賞」というレースがありますね。ギャンブルになんで天皇のブランドがあるのか、不思議に思っていたけど、これのルーツが当時盛んに行われた馬の「駆け比べ」だという。代々の天皇や貴族がお気に入りの行事で、勝負より社交優先のイベントだった。西行も清盛も騎手として出場するのであります。


但し、当時の競馬は二頭による駆け比べで勝ち抜き戦でトップを争った。勝者にはお金でなく文房四宝と呼ばれた書道具を下賜したという。この素朴な天皇賞レースは「流鏑馬」のかたちで伝統行事になった。現在の天皇賞は明治時代に公に制度化されたことがルーツで、菊花賞やダービーと並んで最も人気の高いレースになってることはご存じの通りです。


なにげに「西行」と書いてしまったが、これは出家してからの名前で本名は佐藤義清(のりきよ)という。前記のエピソードはすべて佐藤義清時代の話です。では、なぜ天皇付ガードマンの仕事を辞めて出家したのか。歌詠みに専念したいというゲージツ的欲求のためではなく、まずは保身のためだった。当時は武士が台頭しはじめていた時代で、いずれは天皇や貴族も権力争いに巻き込まれること必至であり、単なるガードマンでは生き延びることなどできないと察したからである。この判断は結果的に正しくて、後世、西行の仲間たちはみんな死んでしまう。唯一大出世したのが清盛だが、結局、敗者になった。


人生最後の仕事は集金旅行
 ラストシーンは頼朝との対面が描かれている。そのとき西行は六九歳、よぼよぼの爺さんになっていた。対面を望んだのは西行である。昔の友人、清盛=平家一族を滅ぼした源氏のトップがどんな人物か見ておきたかった。西行が有名人ということは頼朝も知っていたが、眼前の西行は小汚い坊主のくせに態度がでかい。難なくその場で切り捨ててしまうこともできたが、頼朝はこらえた。どうしても知りたかった天皇家流鏑馬故実西行に語らせ、しっかり筆記して最後に「歌づくりのコツはなにか」と尋ねた。西行の答えは「わずか三十一文字」だった。


西行は頼朝に通行証をもらい、平泉に向かう。なんのために? 藤原秀衡に会って清盛が焼き尽くした奈良の都の再建資金を得るためである。東大寺の僧、重源に頼まれての「集金旅行」だった。最高位の歌人と評されてなお「金集め」に苦労しなければならなかった。六九歳の西行にはるか東北まで「集金旅行」を頼んだ重源の薄情?ぶりに感心するけど、受けた西行にも「ええトシして、ようやるわ」と言うしかない。


それでも西行は自分の人生のラストシーンをしっかりイメージしていた。
 「願はくは  花の下にて 春死なむ  そのきさらぎの  望月のころ」
河内の弘川寺でこの願いを果たした。享年73歳。この見事な有言実行ぶりに都の歌人たちはいたく感動したという。(2012年 中央公論新社発行)

 

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