小林秀雄「読書について」を読む

 読書好きの人に「現代で最高の読書人は誰か」とアンケートをとれば小林秀雄(1902~1983)が選ばれそうな気がする。基本は作家ではなく、批評家であるというポジションが決め手かも知れません。しかし、小林秀雄の何がエライのか、と問われると・・モゴモゴ、一言では説明できない。


本書の内容は軽いエッセイや評論、対談、講演録を寄せ集めたもので、なんとか垣根を低くしようという編集者の意図が察せられます。なので、気楽に読み始めたものの、スイスイ読めるのは半分くらいで、あとの半分は自分には難しい。難しいワケは読み手に素養がないからです。田中美知太郎との対談でなにげにベルグソンとかシュペングラーなんて名が出てきても「なんのこっちゃねん」であります。でも、対談の概要はなんとか理解できます。


「作家志願者への助言」という文は楽しく読めます。作家を志す人に「読み手」としての助言を五つ述べている。ご存じの人、おられるのではと思います。

一・つねに第一流作品のみを読め
二・一流作品は例外なく難解なものと知れ
三・一流作品の影響を恐れるな
四・もし、ある名作家を撰んだら彼の全集を読め
五・小説を小説と思って読むな


<五>の大意は「文学を志したために、生の、現実の姿が見えなくなる。文学の世界から世間を眺めるから文学ができると思い違いする。事実は全く逆である。文学に患わされない眼で世間を見てこそ文学ができる。何派とか何々主義とかを気にしては小説の何たるかが分からない」


「文化について」講演会から
 まだ各地に戦争の焼け跡が残る昭和24年(1949)の講演会から。(要約)
文化という言葉がたいへん流行っているけど、この言葉の意味を理解している人が少ないのが残念です。文化という言葉は中国の古い語で「武力に因らず民を教化する」という意味です。一方、現在の日本では、文化という語はなぜか英語のカルチャーの和訳語になっている。英語のカルチャーは「耕す、栽培する」という意味なので、カルチャー=文化にはならない。何の関係もないのにカルチャーは文化と訳されてしまった。


英語のカルチャー(原語はラテン語)の意味を説明する。例えば、人がリンゴの木を育てて立派なリンゴを成らす。このリンゴの木は比喩的な意味にしろ、カルチャーを持ったことになる。


一方、このリンゴの木を材木として家を建てるための建材にしたり、下駄を作ったりしても、それをカルチャーとは言わない。土を耕し、木を育て、実をならす(栽培する)・・ことがカルチャーの本意である。この違いが大事。


もう一つ大事なことがある。カルチャーは観念ではない。むしろ、目に見えるモノである。人が努力してより立派なリンゴをつくった、そのリンゴにカルチャーの本意がある。観念ではなく、目に見えるカタチで創造、育成することが本来のカルチャーである。(作物の栽培をイメージして下さい)


原文を十分の一くらいに圧縮して説明しましたが、分かっていただけたでせうか。小林センセの本意は「日常に惑わされず、物事の本質を知る学習を怠るな」と考えて紹介しました。今から70年昔の講演会だということをお忘れなきよう。(2013年中央公論新社発行)

 

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