安野光雅「絵のある自伝」を読む

 先日(8月30日)難波・高島屋で「追悼・安野光雅展」を見たときは偶然、 本書を読んでるときと重なった。作品を鑑賞し、自伝を読むことで安野画伯がとても身近な存在になったのは幸運でした。


本書の文は日経新聞私の履歴書」に長期連載したものが主になっている。毎日、ン万人、いや、ひょっとしたら10万人くらいが読むかも知れない記事なので、記憶違いのことを書いてしまわないよう、かなり気配りして書いたことがうかがえる。子供じぶんのことはともかく、有名人になってからは人脈が増えるので「人違い」があっては大変だから、何度も推敲を重ねたことでせう。


読み物として一番面白いのは、ふるさと津和野で過ごした子供~青春時代のもろもろの出来事。誰でも経験するような事件や困りごとが淡々と書かれていて郷愁感満点です。むろん、当人は「絵描きになりたい」願望は持ち続けるのですが、現実は学徒動員で北九州の炭鉱へやられて石炭掘りとか、戦後は極貧に陥って稲刈り用の鎌を背負い、農家を訪問販売するとか(全然売れなかった)辛酸をなめます。


ようやく教師という職を得て食べられるようになった。むろん、絵を描くことは続ける。そんな長い下積み暮らしが後の「画力」に大いに役だった。もともと、周りに敵をつくらないタイプの性格だったし、画風がマイルドなので理解者、ファンが増え、少しずつ人脈を築くことができた。


出版社に実力を評価されて注文が増えると本領発揮、森鴎外の「即興詩人」や「絵本・平家物語」など文学性の高い作品も増えて「国際アンデルセン賞」など数々の顕彰にあずかり第一人者になった。豊かな人脈が築けたのは画業の評価だけでなく、学者と対等につきあえる教養の高さがあればこそ、ここんところが並の画家と大いに異なります。


友人として登場するのは、河合隼雄日高敏隆森毅、なだいなだ、松山善三高峰秀子佐藤忠良司馬遼太郎・・と多彩であります。司馬が72歳で亡くなったとき、なぜか司馬が愛用していた靴を頂戴して履いたら、これがぴったりで、なんやかんや10年くらい使ったという。こんなスグレモノ、てっきり舶来品だと思っていたら、実は司馬の住んでいた東大阪市のメーカーの品だった。


いちびり年賀状で大弱り
 安野氏はユーモアはあるけど、全体にマジメな性格とみられていたが、40代半ばのとき、軽い気持ちでいちびり(おふざけ)年賀状をこしらえて例年通りに配ったところ、エライことになりました。いちびりを解さなかった人が想定外に多くて後始末に大わらわ、という経験です。下がその年賀状です。

 

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見ての通り、著者はなんぞ悪事を働いて逮捕され、正月はムショ暮らしという場面設定でデザインしたのですが、冗談の通じない人が何十人?もいて・・・。


 もし、読者の友人からこんな年賀状が届いたら、どう反応しますか。99%の人はジョークと受け取るでせう。ハガキを見れば看守の名前にみんな犬の字がつているし、差し出した住所、小金井市猫町」なんかない・・。


時代が50年前の1970年正月ということを勘案しても冗談だと分かるはずだけどなあ。一番、深刻な手紙をよこしたのは安野氏の結婚の仲人を務めたIさん夫妻で、心ならず罪を犯してしまったことへの不憫と慰め、励ましを綴った長文の手紙が届いた。これに対して、イヤ、あれはほんの冗談で・・なんて軽い返事は書けない。あれやこれやで大反省したそうです。


安野氏ほど深刻な内容ではないけど、dameo も1980年代から十数年間いちびり年賀状を百枚あまり配りました。幸い、好評だったのはいいけど、みなさんに「元日の楽しみ」にされてやめられなくなり、困りました。ネタ切れになって、ある年、普通の平凡な年賀状に切り替えたところ、案の定「どこか具合悪くなったのでせうか」と病気を案じてのハガキが何通か届きました。・・安野センセの困惑、わかります、ホント。(2011年 文藝春秋発行)

 

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