渡辺利夫著「放哉と山頭火」を読む

 昔、両人の伝記を読んだことがあり、人と作品の概略は知っていたけど、本書の著者は経済学者で、文学は専門では無い立場でどう論ずるのか興味があって購入しました。ただ今は拓殖大学の学長でもあります。


読めば、至ってノーマルな評伝であり、よくこなれた文章で二人のスーパーミジメ人生をリアルに描いている。丹念な資料調査と現地への旅の積み重ねで、まるで本人に密着取材してきたかのような生々しい描写であります。経済学者とは思えない情緒豊かな表現に魅せられます。


尾崎放哉と種田山頭火は自由律俳句のツートップ言える才人でありながら、アーティストとしての生涯はほとんど乞食同然の貧乏暮らしに甘んじた。彼らの貧窮ぶりに比べたら、現在の生活保護受給者はリッチマンそのものであります。なぜ、そんなにビンボーだったのか。二人の共通点は・・

・ふつうの「労働」が性に合わない。
・ふつうの「世間との折り合い」ができない。
・アル中であった。

これじゃメシが食えなくて当然でせう。二人とも生業といえる仕事に携わったのは数年間で、あとは「住所不定・無職」の人生に甘んじた。もし、彼らのような人物が身辺にいたら誰だって軽蔑の眼で見る。犯罪を犯すかも、と警察に通報するかもしれない。そんな、究極の「丸出駄目男」の作品は・・・

 

◆尾崎方哉

・なんにもない机の引き出しをあけて見る

・夕べひょいと出た一本足の雀よ

・わが肩につかまって居る人に眼がない

・墓のうらに廻る

・爪切った指が十本ある

・咳をしても一人


種田山頭火

・分け入っても分け入っても青い山

・まっすぐな道でさみしい

・どうしようもないわたしが歩いてる

・鉄鉢の中へも霰(あられ)

・酔ふてこおろぎと寝ていたよ

・うしろすがたのしぐれてゆくか


衣食足りて平穏な暮らしをしている人にこのような句はつくれないでせう。「咳をしても一人」なんて、孤独の極北のシーンにおいてしか生まれないような気がする。たった九音で百行の詩にに勝る説得力をもっている。ま、「咳をしても一人」それがどないしてん、という鑑賞も自由でありますが。


自由律俳句の提唱者の一人である荻原井泉水は、二人のよきサポーターになった人ですが、二人に比べたらよほどノーマルな暮らしをした常識人でありました。それゆえに? 二人のようなインパクトのある句は生めず、後世の人気、知名度では後塵を拝することになる。皮肉なことですが、それぞれの立場、境遇で頑張ったという点で優劣はつけられない。


せめてもの救いは、二人とも本当の「野垂れ死に」はしなかったことです。息を引き取るとき、そばに人がいた。放哉は小豆島で、山頭火は松山の庵で、畳の上で穏やかに死んだ。これ以上、何を望むことがありませうか。(2015年6月 筑摩書房発行)


山頭火の辞世・・もりもりもりあがる雲へ歩む

f:id:kaidou1200:20210818222024j:plain