朝井まかて「阿蘭陀西鶴」を読む

 Tさんから恵送頂いた本、ありがとうございます。朝井まかての本は過去に「すかたん」「花競べ向嶋なずなや繁盛記」「先生のお庭番」も読んでいて、これらも全部タダ読み(借り読み)です。朝井さん、出版社さん、売上げの足引っ張ってスビバセンです。


本書は井原西鶴の半生を、盲目の娘、おあいの視点で描いたもの。帯に「ほんま、はた迷惑なお父はんや」とあるように、わがままでええかっこしい西鶴に振り回される日々の暮らしぶりから、西鶴の人物像と江戸時代の大阪の風俗を描写している。しかし、西鶴自身は自ら出自を語るようなことがなかったために、未だに不明な点が多いらしい。


刀剣商いの家業を人に任せて自分は若くして気ままな隠居暮らし・・といえば、八百屋を弟に任せて隠居した伊藤若冲に似ているけど、若冲のようなマジメさは無く、得意の俳句の講師みたいなことしてメシの種にした。さりとて大坂でナンバーワンというほどのレベルでもない。


そこで、世間の注目を集めるために矢数俳諧というイベントを企画した。一定の時間内にいかに多くの俳句を詠むか、を公開の場で実演する。はじめは一日千句で評判をとったが、ライバルが現れて抜かれてしまい、負けてはならじと生国魂神社で四千句を詠んで見せ、大評判になった。(後年、住吉神社で23,000句という記録もつくった)ま、サーカス的俳句づくりと言うのでせうか。質より量もええとこです。


西鶴を歴史上の人物にしたのは、俳句ではなく浮世草子(娯楽読み物)。この転向が大成功して文壇のトップになる。「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」とヒット作を量産、今でいえば、週刊文春、アサヒ芸能、週刊実話、のような肩の凝らない読み物で人気を博した。決して芥川賞的文学作品を書いたわけではない。でも、江戸時代、ほかにこのような類いの出版物がなかったのだから人気を独占できた。同時代の松尾芭蕉が純文学の才人としたら、西鶴は大衆文学の雄、ということになりますか。両者は顔を合わせる機会がなかったが、西鶴芭蕉を嫌っていたらしい。


では、大ヒット連発で、西鶴は大もうけして金持ちになったのか、といえば、そうではなかった。著作権の概念がなかった時代だから、最初の原稿料だけが収入で、定価の何パーセントという印税収入はなかった。生涯、豪邸で暮らすリッチマンになれなかった。残念。
 おあいは元禄五年、26歳で亡くなった。後を追うように、西鶴は翌年、52歳で亡くなった。法名は「仙皓(せんこう)西鶴

 

 著者、朝井まかて大阪文学学校」の出身だけど、卒業後、プロになった作家の中では、実力、知名度において田辺聖子に次ぐナンバー2になったのではと思います。まだ60歳代?だから、これからが円熟期、遠からず田辺聖子と肩を並べる人気作家になるでせう。(2014年9月 講談社発行)

 

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