北大路魯山人「魯山人味道」を読む

 本書は文庫本ながら400頁近いボリュウムがあって、全部読むとさすがに食傷します。同じテーマの繰り返しが多いのも煩わしい。
 それにしても凄い食通ぶりです。食材を見分ける眼の鋭さ、執拗なまでの研究心、パッとひらめくレシピのアイデア、卓越した審美眼、彼に勝るグルメ=料理人は今後出てこないと断言しても良いくらいです。


料理人の頂点に立って「自分より才能のある人物はいない」といい、美味しい食事に興味のない人間をバカにしている。こんなエグイこと、普通は書けませんけどね。自称「食通」の金持ちや有名人もカス呼ばわりです。かくして彼のつくる数々の料理は上流階級の面々を感激させ、一方でその狷介な性格は嫌われた。天は二物を与えず、であります。しかし、もし彼がもう少し調和のとれた性格の人物だったら「天才」の評価は得られなかったかもしれず、う~ん、なかなか難しい。


動物でも植物でも「これ、食えるかな」と興味をもったら食わずにおれない性分。その最たるものが「山椒魚」です。(山奥の清流に住む天然記念物)どうして手に入れたかはともかく、魯山人は大きな山椒魚をまな板に載せる。


 127頁「頭にガンと一撃を食らわせると簡単にまいって腹を割いた。途端に山椒の匂いがプーンとした。腹の内部は思いがけなくきれいなものであった。肉も非常に美しい。さすが、深山の清水の中に育ったものだという気がした。(略)それから、皮、肉をぶつ切りにしてスッポンを煮るときのように煮てみたが、簡単に煮えない・・・」以後、悪戦苦闘してようやく口にいれたが、味はスッポンの味を品良くしたもので美味であった、と続く。ほかにヒキガエルなども食べている。


魯山人の人生のピークは「星丘茶寮」という高級料亭を運営した十年くらいで、才能が花開き、好きなコトを存分に実行出来た黄金期だった。場所は国会議事堂の近く、現在、ヒルトンホテルの建つところだという。


 ここでは食器づくりにも目覚め、個性豊かな、料理に最適の器を自らデザインした。後には窯までこしらえて陶芸作家にもなる。これらの多才ぶりから不世出の料理人にしてアーティストと言ってもよいでせう。今や世界中に進出している和食の美味しさと美しさのベースは彼がつくったと言っても過言ではない。


貧乏人の家に生まれ、捨て子同然に転々と里親のもとで極貧生活を強いられたが、9歳のときには「米飯の上手な炊き方」を自ら研究するという、食へのこだわりぶりを見せる。生涯「なんぞ旨いもん」を追求した人生の原点であった。

 

学歴ナシ、料理教習の経験ナシ、芸術教育の経歴ナシ、なのに日本一(世界一かもしれない)の料理人にしてアーティスト・・。しかし、幸多き人生ではなかった。

 昭和34年、76歳で不遇なまま死を迎えた。世間に彼を惜しむ人など皆目いなかったそうだ。(1980年4月 中央公論新社発行)

 

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