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~レガ爺 dameo の泡沫ライフ~

Nostalgia ~旅の思ひ出~  

八重山諸島 現地で知った文化的格差

波照間島行きをあきらめる
 一番の目的地、波照間島は船便の事情で訪問できないことがわかった。便は週に2回くらいあるが、片道数時間かかり、冬は海が荒れるので欠航は普通で・・ということは、渡島はできてもいつ帰れるかわからないという状況でした。残りあと5日の日程ではリスク大きすぎます。で、あっさりあきらめました。


 その代わり、といってはなんですが、すぐ近くの竹富島を訪問しました。わずか30分たらずの距離なのに、小さな木造の連絡船(はしけ)は大波に翻弄され、船縁にしがみついていた。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」図を見るたびに「あんなんやった」とびびります。

 

竹富島行きの連絡船 帰省客で満員だった

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八重山新聞」の切ない姿に・・
 地方を旅する楽しみの一つはローカル新聞を読むこと。政治、経済などは共同通信の配信記事なので全国紙と変わりませんが、地元ネタのあれこれはヨソ者には新鮮です。けれど、石垣島で手にした「八重山新聞」は楽しさより切なさが勝る、忘れ難いローカル紙でした。


 切なさ「その1」は記事の内容。1967年1月元旦の一面トップ記事は「苦節二十年 やっとテレビが見える」(写真参照)政治的、技術的困難を乗り越えて67年末にはようやくテレビ受信ができることを伝えています。


 ライターは地元の実業家で、琉球政府や日本政府との交渉や遠距離通信技術の難しさなどを述べ、ようやく67年の秋からテレビが見られるようになったと控えめに手柄話を紹介しています。先頃の実験放送では氏の経営する?電気店で試験電波受信を公開したところ、町民が殺到して警察官が出動するほど大騒ぎになったと書いています。役場の広報看板でも放送開始迫るを知らせるとともに「テレビとはどういう機械か」の説明も書いてありました。


 別の紙面ではもっと驚く記事がありました。69年の完了を繰り上げて67年中に「全島電化」を実現すると。未だに電気のない暮らしをする集落があったのです。空港もある石垣島でこの状態だから、西表島波照間島はさらに未開だったと思われます。


 八重山の人たちは、皇太子明仁殿下と美智子様のご結婚祝賀パレードや東京オリンピックや時速200キロの新幹線開通の華やかなニュースをテレビで見ることは叶わなかった。大イベントで本土並のテレビ情報を視聴できるようになったのは1970年の「大阪万博」からです。(沖縄返還は1972年)


全国唯一?活版印刷の新聞
 切なさ「その2」八重山新聞が活版印刷の新聞だったことです。活版印刷ってナニ?の方も多いでせう。要はハンコと同じ理屈で鉛で鋳造された凸面にインクをのせ、印刷する古典的技術です。一本で一文字なので文章を構成するには、千文字なら千本の活字が必要です。有名大企業「凸版印刷」の凸版はこのことを指します。


 しかし、八重山新聞の紙面を見ると活字のストックが足りなくて小学生が書いたようなひどい文章になっている。(写真参照)「年」という字が足りなくて「ねん」の表記。地元の読者はこれが日常なので気にしないのでせうが、ヨソものが読むと粗末さをなじるまえに切なくて涙ちびりそうになります。

 

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 テレビは見られず、ラジオはNHKだけで雑音だらけ、地元新聞はこのような粗末さが八重山の人たちの情報生活だった。ちなみに、朝日や読売という内地の新聞は二日遅れ、週刊誌は鹿児島~那覇石垣島の船便なので一週間遅れで届いていた。


 この「八重山新聞」はその後どうなったのかわからない。現在は「八重山日報」と「八重山毎日新聞」の2社があり、これに本島の「琉球新報」と「沖縄タイムス」も読めるから、狭い島で四つの新聞が読者を奪い合ってる状態で、かつての情報過疎が信じられない過当競争になっている。


 なお、新聞の最新ニュースによると石垣島でもコロナ感染が広まり、複数の感染者が出た郵便局は島内でのすべての郵便業務が停止したと報じています。


八重山日報
https://yaeyama-nippo.co.jp/

八重山毎日新聞
 https://www.y-mainichi.co.jp/