能勢初枝「ある遺書~北摂能勢の安徳天皇伝承~」 

 安徳天皇は生きていた!?
 久しぶりに読書感想文の投稿です。歴史好きのSさんから手紙をいただいた。同封されてた史跡案内のチラシに来見山「安徳天皇 御霊跡地」の題があり、内容を読むと、かの源平合戦の最終戦壇ノ浦の戦いで幼い安徳天皇は祖母とともに入水(無理心中)され亡くなったとされているが、実は・・・生き延びて摂津能勢の山奥で暮らした。しかし、わずか一年後に病死した。同行した供のものが弔い、御陵をつくったとあります。その同行者、藤原経房が後世に事実を伝えるために遺書として顛末をしたため、厳重に封をして屋根裏に隠した。


600年後、江戸時代に発見され、大騒ぎになった。事実か、偽書か。いろんな人が謎解きを試みたが真偽判定できず、今に至っている。平成の今、改めて詳細に調査して可能な限りの情報を集め、まとめたのが本書であります。著者の能勢初枝氏は1935年生まれ、奈良女子大国文科出身のインテリおばさんで郷土史研究がライフワーク。


各地に伝わる平家落人伝説や義経伝説と同じようなマユツバ物語だろうと思い、しかし、無視するのもSさんに悪いので、念のためにネットで情報を探してみたら、この本が見つかったのであります。初版は500部しか刷らなかったというマイナーな出版物。しかし、興味をもつ人がたくさんいて品切れになり、再発行したという。


読めば実に面白い・・だけでなく、真摯な調査姿勢により、リアリティも十分。歴史の裏側を詮索するのが好きな人にはぜひ読んでほしいスグレモノです。ただし一回さらっと読んだだけでは理解しにくい。人脈相関がとても複雑で、しかも似た名前が多いので誰が誰やら覚えきれない。

 平家一族の主要メンバーフル出場といった感じです。平清盛、経盛、敦盛、重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、清房、維盛、資盛、淸経、有盛・・・さらに藤原一族の俊成、成親、成経、定家・・プラス、それぞれの女御、恋人。歌舞伎ファンなら、知盛や敦盛、成経の名前はおなじみですが、いったい誰が清盛の兄弟なのか、息子なのか、孫なのか、知らないのが普通でせう。しかもなおややこしいのは、主人公、藤原経房と同姓同名の別人が同じ時代に実在したことが分かり、話がいっそうこんがらがってきます。でも、面白い(笑)。


遺書によると、壇ノ浦で入水したのは安徳帝の身代わり、知盛の次男で、安徳帝はどさくさに紛れて上陸し、数人の供と山中に逃れる。(その一人が経房)艱難辛苦、一ヶ月半かけて、石見、伯耆など、山陰まわりで必死の逃避行の末、能勢にたどり着いた。ここに落ち着き、ボロ小屋を建てて仮の御所とし、農民と同じ生活をはじめる。しかし、もともと虚弱な体質だった帝は、一年後、風邪をこじらせて?亡くなってしまう。享年八歳。


経房は悲報を帝の母(清盛の娘、徳子。出家して建礼門院となる)に伝えるべく都へ行こうとするが、年長の供の者に諫められ、出かけなかった。幾星霜を経て、仲間の者が次々に亡くなり、経房50歳になったとき、この遺書をしたためた。日付は健保5年(1217年)。発見されたのが江戸時代の後期、文化14年(1817年)だから、ちょうど600年間、農家の屋根裏に秘匿されていたことになる。


本物か、偽書か。著者、能勢氏は願望も込めて本物説の立場です。その根拠は、当事者しか書けない内容だからで、経房ほか当事者が実在の人物であったかどうかの検証に多くの頁が費やされている。外部の人間なら、壇ノ浦の戦での無名人を含めた「乗船者名簿」など分かるはずがない。これらの人物のアリバイ証明が大きな説得力になっている。


よって、駄目男を含めた読者の多くは「本物とちゃうか」気分にさせられるのであります。残念ながら、遺書の原本は失われているが、発見時に多くの人が写本をつくっており、江戸時代に内容がねつ造された可能性はない。さらに、現地に物証(遺跡・遺品)があり、地元農家の家系や伝承、地名など傍証になる情報も多い。もし経房以外の人物による偽書であれば、創作は13世紀でなければつじつまが合わない。源平時代に貴族や僧侶以外で、そんなヒマジンにしてインテリがいただろうか。


ちなみに、安徳天皇の御陵というのは各地にあり、宮内庁では、山口県下関市にある赤間神宮安徳天皇阿弥陀寺陵を御陵としている。他に鳥取県長崎県熊本県、さらに遠く鹿児島県の硫黄島にも陵墓がある。(2011年 個人発行 能勢初枝で検索すると情報が出ます)

 

藤田孝典「棄民世代」

 10年以上前?「下流老人」という本を著した人が、この本ではかの「氷河期世代」の困窮ぶりを調査し、問題提起した本。読めば問題の深刻さに気が滅入ってしまうのですが、さりとて「こんな施策で解決できる」という提案もない。せいぜい小泉純一郎竹中平蔵を恨むしかないのであります。


前世紀末に雇用に関する規制が緩和された結果、企業には甘く、労働者には厳しい<就職氷河期>という社会的困難が生じた。一方で雇用の自由化に乗じて就職斡旋外社がドカドカ生まれ、一部は大企業にまで成長した。このシステムを主導した一人が竹中平蔵である。政府中枢のメンバーであった竹中は待ってました、とばかり就職斡旋大手の「パソナ」のトップに転職し、甘い汁を吸い続けている。弱きをイジメ、ワルにすり寄る江戸時代の悪代官をどどんとスケールアップしたような人物だ。


書名に「政府に見捨てられた氷河期世代が日本を滅ぼす」という副題がついている。ン百万人の困窮世帯が中年から高年、退職後まで困窮のままだと国家の負担が大きくなりすぎて、ヘタすれば経済的破綻を起こしかねないという。
 氷河期世代のとらえ方は幅広いが、大卒・高卒の新規就職者でみれば、概ね、1993~2003年に就職活動した数百万人と、同時期に転職した中高年約2000万人が対象になる。日本の総労働者数の3割以上が「氷河期」を体験している。これらの人が2050年には退職時期を迎える。


具体的に何が問題なのか・・・
・    氷河期世代は老後の年金が期待できない
・    なのに国保の保険料や介護保険料は上がる
・    40代の4人に一人は貯金ゼロもありうる
・    貧しくても長生きしてしまうリスク
・    親の介護問題
・    最後の頼みは生活保護・・


数年前、ある役所が公表した「老後2000万円問題」を覚えていますか。65歳で定年になった夫婦が月額21万円の年金を受けながら暮らすと標準生活では月5万円の赤字になり、退職後20年では1300万円、30年では2000万円が不足するという。役所自ら発表したため、年金をアテにしたら生活できないのかとボロクソに批判された。


しかし、これは最高に恵まれた受給者の例、すなわち、40年間きっちり年金を納付した人の話である。こんなの氷河期世代にはほぼあり得ない。月額21万円の支給額も夢のような高額だ。年金の滞納も普通にあるのがこの世代である。40~50歳代で貯金額が100万円未満というのは自分の経験から言うと恐怖を覚える少なさである。そんなときに親の介護問題が生じたら・・。仮定の話ではなく、現実に起きている。親の年金と自分の給料を合わせてかろうじて暮らしてるというのも普通にある話で、貯金どころではない。


かように氷河期世代の生活は厳しい。なのに昨今はAIが進歩してさらに圧力をかける。国が無為無策を続けると、たとえば、ベーシックインカムなる思想が議論されるかもしれない。根がマジメな日本人には似合わないけれど、議論する価値はありそうな気がします。(2021年 ソフトバンククリエイティヴ発行)

 

 

佐藤大介「13億人のトイレ」

 この本を読んだ人のほとんどはインドという国が嫌いになるのではと懸念する。好きになる人はゼロでせう。その理由がインドの国家的恥辱といえるトイレ問題であります。タイトルの「13億人のトイレ」を具体的に述べるとインド人13億人中、5億人はトイレのない生活をしている。(最新の情報では人口は14億人を超え、中国を抜いて世界一になった)国民の三分の一はトイレなしの暮らしを余儀なくされている。トイレなしの理由は貧しいからである。


世界中から「成長を続ける大国」として認知されているインドが「トイレもない不潔な国」と言われるのは耐えがたい。で、モディ首相は2014年の就任早々「スワッチ・バーラト」(きれいなインド)をスローガンにトイレ普及運動を強力に進めた。汚いインドのイメージを払拭する善政だから国民はすべて賛同し、衛生環境は一挙に大改善されると思われた。


結果は?・・・大失敗ではないけど大成功でもない。本書での感想をいえば「そこそこ改善された」といえる。何もしないよりはマシというレベルだった。私たち日本人はカン違いしている。政府の後押し(補助金支給)で各家庭にトイレをつくるということは水洗便所または田舎では浄化槽つきのトイレをつくることだと思ってしまうが、これは間違い、インドにおいては「くみ取り式便所」をつくることであります。それでも野原の草陰で用を足す天然トイレに比べたら大改善といえる。普及するのが当たり前でせう。


それはヨシとして、コンクリート製の便槽に貯まった糞尿はどうするのか。年配の方ならバキュームカーによる回収を思い出す。アレが定期的にきてくみ取ってくれた。しかし、インドにバキュームカーはありません。自分で処理するのです。(野原に散布して乾燥させる)モディ首相の唱える国民運動「きれいなインド」づくり=各家庭にトイレ設置とはこのことです。


自分でくみ取る作業を嫌悪してトイレ使用をやめ、元の野原天然トイレに戻る人がいる。少しゆとりのある人は人を雇って処理する。誰に頼むのか。インド固有のカースト制度における最下層の人が請け負う。人種差別制度あればこその外注である。これでしか生活を維持できない人たちがいることを考えると暗澹たる思いである。


本書で繰り返し述べているのがインドでは人口の急増と工業の発展のためにすでに水資源が不足しており、早晩、飲料水にも事欠く事態になる。人口の半分が水洗トイレ利用者になるなんて夢のまた夢物語である。人口で一、二位を占める中国とインドが、水資源問題や食糧自給問題で舵取りを誤れば「世界のお荷物」国家に落ちぶれる可能性があります。(2020年kaokawa 発行)

 

 

斎藤美奈子「学校が教えない ほんとうの政治の話」

 自分の体験で言えば、今まで友人、知人と政治に関して議論した記憶がほとんどない。たぶん、日本人の多くが政治的議論を好まないのではないか、と思っています。なぜなのか?。著者は明快に答える。「贔屓がないからです」
 なるほど、そういうことですか。虎キチが集まれば自然に話が盛り上がる。巨人ファンに対してもガンガン言いたいことを言う。ところが、そんな贔屓がないと話題に事欠き、議論などできない。選挙の結果は贔屓の結果でもありますが、実情はみんな黙って投票するだけで終了です。


諸君、もうちょっと政治に興味を持とうではありませんか、と呼びかけ、政治のイロハのイから啓蒙しようと著したのが本書であります。とても分かりやすい書き方なので、新しく選挙権を得た若者が読めば役に立つと思うのですが、ま、こんな本、買わないでせうね。そうして中年になり、オジンに至っても政治オンチのままあの世へ行くのであります・・って、自分のことか。


何が分かりやすいのか。本書では国内政治のすべての論点を二つの対抗軸の設定で解説する。即ち、体制派と反体制派、資本家と労働者、右翼と左翼、国家と個人、保守とリベラル、と二分してあなたはどちらを支持するかを問う。
 なるほど、これなら分かりやすい。もちろん、自分は右翼か左翼かなんて考えたことがない人や、年収400万のサラリーマンだけど親父から10億円の遺産を受けた自分は資本家なのか労働者なのか、ワカランと迷う人もいるでせう。


それでも、このような論点の整理は役にたちます。現在の自分の立ち位置だけでなく、過去の自分を思い起こして比べることもできる。dameo も若い時分は左翼支持、反体制派の人間で、土井たか子のファンやったなあと懐かしく思い出すのであります。(しかし、共産党は嫌いだった。死ぬまで嫌い)
 ところで、著者、斎藤センセの立ち位置はどうなのか、これが気になりますが、本書の中程で「自分は反体制、リベラル支持」と述べている。だから内容も左よりに偏向しているのかといえば、そんなことはなく、100点をあげたいくらい平等の扱いをしている。内容はむろん、恐らく文字数まで等しくしたのではと思われます。


書名が「学校では教えない・・政治の話」となっているけど、国家と個人、資本家と労働者などのテーマは、ほんのさわりくらいは教えてるはずです。しかし、選挙の投票率が概ね50%前後しかないのは国民の半分は政治や行政に無関心であることをあらわしている。生まれ変われるのなら、日本人以外の国民になりたいと思ってる人たちでせう。(2016年 筑摩書房発行)

 

 

吉本隆明「ひきこもれ」 ~一人の時間をもつということ~

 子供から中高年に至るまでのひろい世代に普及してしまった「ひきこもり」。ふつうはこういう人たちに「ひきこもらないで」と訴える本が多いけど、さすが吉本センセは真逆に「ひきこもれ」とハッパをかける。ひきこもり・・一人の時間をもつことの意義や大事さを説く。著者名から難解な言葉での説教を想像してしまうけど心配無用、中学二年生くらいでも理解できるのではと思うくらい平明な文章で綴っています。五味太郎による表紙デザインも秀逸です。ま、問題は当事者がこの本をひもといてくれるかどうか・・です。


センセの自説としてこんなことを述べている。子供はお母さんの胎内にいるときから生後一年くらいの間は母親の生活状態、精神状態の影響をモロに受ける。例えば、夫との諍いが絶えないとか、ひどい困窮状態とか、日々、精神的に苦しむ暮らしを続けるとそのマイナスのダメージが子供にコピーされる。母親の不幸が一歳に満たない赤ちゃんの脳に刷り込まれてしまう。これは恐ろしい。


そんな赤ちゃんが成長すると,本人は全く自覚も記憶もないのに万事にネガティブに世間と対応する子供になる。逆に言えば、お母さんが安定した精神状態のときに授かった子供は素直に育つという。
 子供がイジメに遭って引きこもり状態になり、挙げ句に自殺するという大きな不幸が生じたとき、親はいじめた相手やその両親を糾弾し、裁判で倍賞を求める事件があるが、訴えた親は自分の過去の人生を顧みることがあるのだろうか。自殺した子供を育てたのは他ならぬ自分、という認識は持ちにくいのではないか。


暗い気質の親に育てられた子供が暗い性格を引き継いだ。むろん、それで親の非を咎められることはないが、親の不幸な人生が子供の人生を壊してしまうことは普通にある。裁判に勝って謝罪や賠償金を得ても子供は全く救われない。


最近の事件、都立大の宮台教授を襲った犯人は41歳の引きこもり男性で逮捕される前に自殺した。世間はたちまちこの事件を忘れてしまうが、犯人の70歳代の両親の苦悩はいかばかりか、時期をみて被害者に謝罪に赴くだろうけど、それで悲嘆が半減・・でもあるまい。あんなダメ息子を生み、育てた夫婦の懺悔、自虐の日々を想像すると他人事ながら気が滅入る・・とこれは自分の勝手な想像で、もしや、想像とは逆にサバサバした日々を送ってるかもしれないが。
 吉本センセは、母親が妊娠中から生後一年くらいの期間にひどい困窮とか生活のピンチに見舞われることを想定して国による援助が望ましいと書いている。引きこもりを減らすには、子供本人に対する教育、指導ではもう遅い。安心して子供を産み、育てられる環境整備が必要というわけです。センセのこの提案、理解してくれる人いるかなあ。(2002年 大和書房発行)

 

 

馳星周「少年と犬」

 本猿さんの感想文に触発されて読みました。犬が主人公の物語なんて、もしや小学生?のときに読んだ「フランダースの犬」以来か。ふる~~~~~~~。
 雑誌「オール読物」に連載した6編の短編小説をまとめたもので、半分くらいはアホな人間とカシコイ犬の物語。一番の優れものはラストの「少年と犬」で背景に東日本大震災熊本地震が描かれる。


岩手で被災し、熊本へ移住した主人公はある日農道でヨレヨレに弱った犬を拾う。動物病院へ運び、診察してもらうとマイクロチップが見つかり、生地は岩手県だとわかった。野良犬が岩手から熊本までどうして移動できたのか・・。
 それはともかく、犬は主人公の家庭に引き取られた。ひとり息子のHは震災のショックで言葉を失うという難病を負ったが犬とふれあううちに感情表現が豊かになり、ついに言葉を発するまで回復した。童話ならここでハッピーエンドになるところ、大人向き作品としては甘すぎるのでラストは熊本地震で犬が子供を守るために犠牲になるという悲劇で終わる。


犬と猫を比べたら、飼い主への忖度では犬のほうがはるかに上であること、誰しも認めるでせう。犬の人間への忖度あればこそ物語が生まれる。ということは、その前に作家は「いぬの気持ち」を理解すること、すなわち、犬への忖度が大事であります。むろん、犬の気持ちなんかわかるはずはないが、そこのところは想像力と表現力で読者の心をつかむ「忠犬物語」を創造する。それでも当作品はフィクションとしてはツツ一杯のストーリーで、これ以上話を飛躍させたら読者はしらけるでせう。(2020年 文藝春秋発行) 

 

 

 

礒井純充  本で人をつなぐ「まちライブラリーのつくりかた」

 このブログではときどき「まちライブラリー」と言う言葉が出てきます。市民の発想、企画でつくる民営の図書館で、2011年以後、全国で1000近くの大小の図書館が生まれ、いくつかは既に姿を消しています。この生みの親が著者の礒井(いそい)氏です。 礒井さんは森ビル株式会社で社会人教育機関「アーク都市塾」や産学連携・会員制図書館「六本木アカデミーヒルズ」を立ち上げた人で、最先端の知が集まる場所が職場だから憧れられる存在でした。
 それでもビジネスは「結果を出すこと」だけで評価されるから、だんだん違和感を覚えるように。エリート層なのに「サラリーマンに絶望」し?あれこれ悩んだ挙げ句に思いついたのが「まちライブラリー」でした。そして森ビルを退社、ただのオッサンになった。


 本を買って(借りて)読んで、オワリ・・にしない。礒井氏は本を介して人と人をつなぐことができれば、本も人ももっと生き生きできるのではと考えて、あれこれ模索、実験した末にようやく「まちライブラリー」が誕生。組織に頼らず、全くの個人活動で全国に大小のライブラリーが稼働しはじめたのだから、ハンパでない信念と説得力の持ち主なのでせう。蔵書が1万冊になっても検索サービスなんかないからはじめて訪ねた人はオロオロしますが、それがまた楽しい。本を探すのではなく、出会う、という感じです。(蔵書はすべて会員の寄贈によるもの)


dameo が会員になっている「まちライブラリー@もりのみや」は会員が8000人、蔵書は約1万冊。同じ区内にある公立の図書館より繁盛してるかもしれない。カフェもあるのでBGMも流れるし・・で静謐ではないけれど、慣れたらぜんぜん気にならない。自分が今までに寄贈した本は100冊くらい。うち、20冊くらいは昔にまとめ読みした「聖徳太子」関連本でした。会員の中には奇特な人もいて、新刊の文庫本を5年間に500冊寄贈した人もいる。


たしかに、公立の図書館に比べたらラフな空間だから人づきあいはしやすい。むしろ、ひとり静かに読書に耽るのが好きな人には似合わない空間といえる。なので、自分のように公共の図書館とこの民間ライブラリーを同じような頻度で利用してる人は少数かもしれない。最近は公立の図書館も利用者との交流をはかるための催事を考えるようになったけど、スタッフは石頭人(公務員)だから楽しい企画なんて、まあ望めない。


偶然にも5月15~17日のサンケイ新聞夕刊大阪版の文化欄で著者、磯井氏の活動を紹介する記事が掲載されたので下の写真でお伝えします。取材現場は「まちライブラリー@もりのみや」です。(2015年 学芸出版社発行)

まちライブラリー@もりのみや
https://machi-library.org/where/detail/563/

<追加記事> 6月には西東京市のどこかで三菱UFG銀行が絡む新施設の中に「まちライブラリー」が設置されるという情報があります。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000048.000079050.html


新聞に三日間連載された記事 

 

 

 

岩瀬達哉 「パナソニック人事抗争史」

 世に伝わる「経営の神さま」といえば、まずは松下幸之助を想像する。これに文句を言う人はいないけれど、神さま幸之助の次の社長は神さまではなく、さらに次の社長・・となるとレベルダウン著しく、要するにタダのヒトしか現れなかった。初代が神さまに祀り挙げられると次世代以後の社長さんたちはどれだけ苦労するか、を記録した本です。
 念のために、<松下幸之助 祭神>で入力すると・・わっ・・本当に神さまになっていました。三重県鈴鹿市椿大神社(つばきおおかみやしろ)の末社に祀られています。


まだ存命している元社長さんもいるかもしれないのに?、よくもこんなに悪口書けたもんだと心配してしまいますが、名誉毀損とか、クレームがつかないのは内容が間違っていないということですか。


松下電器歴代社長
     01代 1935年-1961年 松下幸之助
  02代 1961年-1977年 松下正治
  03代 1977年-1986年 山下俊彦
  04代 1986年-1993年 谷井昭雄
  05代 1993年-2000年 森下洋一
  06代 2000年-2006年 中村邦夫
  07代 2006年-2008年 大坪文雄
パナソニック社長)
  07代 2008年-2012年 大坪文雄
  08代 2012年-2021年 津賀一宏
  09代 2021年-     楠見雄規


本家以外で一番有能だったのは三代目の山下俊彦。本書でボロクソに描かれてる気の毒な社長は四代目の谷井さんと五代目の森下さん。7代目の大坪社長時代に社名が「パナソニック」に変わったけれど人事や業績の面で飛躍的に変化したわけでもない、というところが世間の評価でせう。


幸之助が山下俊彦を抜擢したのは◎だったけど、以後のトップ人事は失敗の連続だったというのが本書の言い分。日本を代表する大企業なのに内部は情実人事の連続だった。カンタンにいえば、人選は有能か無能か、ではなく好きか嫌いか、で決まった感がある。加えて、幸之助の女婿、松下正治と重役連中との軋轢があり、さらに、正治の息子、松下正幸の処遇の問題もあって、皆さんは気苦労の山のなかで仕事した。社長の座を降りてやりがいや充実感を十分覚えた人は皆無ではと想像します。


神さま、幸之助は身内の松下正治が嫌いだった(有能と評価出来なかった)ことが不幸のはじまりで、正治の次に山下俊彦をを選んだのは「ショック療法」の意味があったと思います。山下社長が就任したときは大ニュースになったことを覚えています。席次ビリの山下サンが重役22人を飛び越えて社長になったのだから世間はビックリした。就任後も人柄や仕事ぶりが大企業のイメージにそぐわないのでニュースになりました。
 いや、ようやるなあ・・と驚いたのは、午後5時の終業時刻になると、さっさと帰宅する習慣?をつくったことで、取り巻きのスタッフは「帰るな」ともいえず困惑した。(幸之助はこれを咎めなかったらしい)かくして、歴代社長で唯一の「変人」のレッテルを貼られたけれど、追い抜かれた凡人重役たちにとっては「良い見本」になるはずがない。四代目からは情実人事が続いた。


テレビがブラウン管から液晶パネルへ移行する時代に、松下は「プラズマ」にこだわって4000億円もの投資をして量産体制をとったが市場はすでに液晶
が占拠しており、完全な敗北で撤退を余儀なくされた。この時点あたりからパナソニックは「エクセレント・カンパニー」のイメージを失った感がある。(2016年 講談社発行)

 

 

古本市で明治時代の教科書を買う

 春と秋に四天王寺で催される古本祭り、お目当ては「100円均一」台と「和綴じ本」の台。和綴じ本は従来300円均一だったのに今年は400円に値上げされた。100年前の古本も値上げとは・・・。
 で、より慎重に選んで買ったのが明治34年(1901)発行の国語教科書。この時代の大事件といえば日露戦争(1904~1905)です。これを読んで、では自分の小学一年生(1946)のときはどんな教科書だったのか、ずっと前から気になっていたことを調べました。自分より少し先輩の方は最初のページの文章が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」の文を覚えている人が多い。しかし、これは戦前の発行で敗戦後に使われることはない。


自分の記憶でハッキリしていることは、どんな文章であったか、ではなく、外形です。入学時に配布されたのは「本」ではなく「紙」だった。新聞紙2面ぶんくらいの大きな紙に数ページぶんの誌面が印刷してあった。これをハサミか包丁でゾリゾリ切り分けて束ね、母が糸で縫い付けてくれた。
 もしや図書館の書庫で保存されてるかもと思い、中央図書館の司書さんに「昭和46年度の一年生国語教科書が見たい」と相談しました。大量のデータと紙の資料集を調べてもらいましたが、なんという運の悪さ、見たい昭和46年のぶんだけ見つからない。製本されない「紙」であったことで「資料に非ず」と排除されたのか。そんな「差別扱い」があったと思いたくないけど、とにかく現物は見つからなかった。


しかし、文章は一点だけ見つかりました。下の画像「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」です。なんとも芸のない、無愛想な文章であるか・・とケチをつけてもしようがない。当時は前年の空襲で印刷工場も製本所もほとんど灰燼に帰し、紙自体も払底した状況でした。もし、教科書を子供たちに配布できないなら教育史上の大汚点になる。本の体裁がどう、内容がどうかなんて吟味できず、とにかく「紙」を配るだけで精一杯だったと思われます。

 

dameo が人生の最初に見た本がこの教科書

 

 

明治34年発行の国語教科書。帝国書籍発行 価格は10銭 当時の庶民の月収は10~20円くらいでした。

 

 

小学一年生の教科書にしては妙に切ない話が掲載されている。

 

神舘和典・西川清史「うんちの行方」

 「今日もニコニコ乱読味読」がうたい文句なので、なんでも読むのであります。こんなキワモノ企画を上記二名の著者はコネなしで新潮社編集部へ売り込みに行った。無礼者めが!と一蹴されるかと思いきゃ「ええん、ちゃう?」で出版決定。なんと言いますか・・目の付け所が良かったのでせうねえ(不詳)


読者のなかで家庭のポットントイレを覚えている人、どれくらいおられるでせうか。1980年までに生まれた人なら記憶してるかも。ともあれ、水洗トイレしか知らない現代人はトイレ文化史を語る資格がないでせう。
 驚くべきことに、藤原京の調査で水洗トイレ跡が発掘されました。都の小川から溝で水を引き込み、2枚の板を渡し、またがって用を足す。ポットン式より大進歩であります。もっとも、その下流では野菜を洗ってたかもしれないが。


ポットン式を覚えてる人は列車のトイレも覚えてるでせう。今じゃ信じられないけど線路へジカにばらまいていました。昼間に「大」を使うと穴底から見える線路がものすごいスピードで飛び去っていき、恐怖感を覚えたものです。しかし、停車中の使用はマナーとしてアウトなのでイヤでもスリルを味わうハメになっていました。線路際の民家にとっては「黄害」が深刻で、経済発展によって列車の本数が増えると悪臭やハエの発生に悩まされた。


 鉄道線路は定期的に保線作業が必要なので作業員は列車の通過時に糞尿を浴びる。特にトンネル内では逃げ場がない。仕事とはいえ、あまりに過酷な状態なので組合が訴訟を起こしたこともある。作業員から見れば、鉄道ファンが愛するブルートレインによる被害が最悪だったそうだ。寝台車である、編成が長い、スピードが早い・・で、ウンが悪いと顔面直撃もあったという。んぐぐぐ。


そんな悲惨物語も糧にしてトイレ機器のハイテク化では日本は世界一だという。欧米から有名スターが来日してお土産に最新型の洗浄便座を買って帰るのがフツーになっている。むろん、満足度が高くて他人に吹聴するからさらに人気が高まる。国内ではTOTO、リクシルパナソニックが熾烈な開発競争をしている。便器を流れるトルネード型の水流の研究にスーパーコンピュータを使うのだから、ポットントイレ経験者には夢のような話であります。


それにしても・・水洗トイレ先進国であるはずの欧米でなぜ日本のような熾烈な開発競争が起きないのか、不思議であります。本書でもその答えは「文化の違い」としか述べていない。もうひとつ、わかりやすい説明は、欧米では水(水量)に恵まれない国が結構あって、個人の水使用量を制限している。輸出を目論む日本のメーカーが「節水」機能の進歩開発に熱をいれるのは「無駄づかい、贅沢」感を払拭するためもあるらしい。研究が進んで、昔のハイタンク式(紐を引っ張る式)では20リットルも使った水は、最新型では3,8リットルまで減らすことができた。(これ以上減らすのはムリみたい)


うんちにまつわるいろんな話を読んでシミジミ感じたことは、石油ない、食料ない、肥料もない・・ないない尽くしと思う日本に高品質の水が十分あることの有り難さであります。石油がたんまりある砂漠国が海水を濾過して水道水をつくってることを知れば、ま、五分五分ちゃいますか、とひとまず安心する駄目男でありました。(2021年 新潮社発行)

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宗教新聞は「USO記事」が許されるのか

 4月27日の「聖教新聞」一面に池田大作氏が書いた?「危機をを打開する<希望への処方箋>を」という記事が掲載された。もう十年くらい消息が不明の池田先生がウクライナ問題にも言及した長文(原稿用紙15枚以上?)の論考なので信者ならずとも、へえ~~と驚いた。 


池田<大作>氏が書いたのではなく、誰かが<代作>した文であること、まちがいないでせう。内輪では、記事を載せるか、のせないかで議論があったのではと想像します。聖教新聞は拡販のために信者ではない人にも毎日、ン十万部?も無料で配布されており、この新聞を読む非信者は「そんなアホな」と反応する。信者を増やすために配ってるのに逆効果になりかねない。


幸福の科学の教祖、大川隆法氏が亡くなったことは周知されているけれど、池田大作氏の消息は信者さんも知らない。しかし、このような記事を掲載するのなら池田センセの生存は間違いない。但し、ウクライナ問題を認識し、文章が書ける状態でないことも事実でせう。つまり、池田メッセージは捏造記事であります。幸福の科学なら「霊言である」で済ますだろうが、世間の常識からみれば許されないことでせう。(池田氏は1928年生まれなので今年95歳になります)

聖教新聞HP
https://www.seikyoonline.com/
日経新聞報道
https://www.nikkei.com/persons/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BD%9C