●JRの売り上げアップ策「老春81きっぷ」を提案

 旅行が趣味という人は多いけど、自分でプランをつくり、乗物や宿の手配もする人は半分くらいでしょうか。安くて便利、だけの陳腐なパックツアーに満足しない人もたくさんおられるはずです。コロナ禍で交通、宿泊など観光ビジネスの売上げがガタ減りになったいま、なにか名案はないだろうか。


・・で、思いついたのが表題の「老春81きっぷ」です。なんや、青春と18をひっくり返しただけかい。はい、その通りのさぶ~いダジャレでありますが、新きっぷはシニアを旅にさそい、金を使わせるために思いついたアイデアです。
諸君!「書を捨てよ、旅に出よう」


<老春81きっぷ>の概要
  70歳以上の人を対象に身分証明書提示で購入できるきっぷを新発売する。
1・「81きっぷ」の値段は「18きっぷ」の約2倍、2万5000円。

  使用できるのは「18きっぷ」と同じ5日間。
2・「81きっぷ」は普通列車のほかに、新幹線、在来線の特急も使える。
  特急券の値段は5割引き。
3・使用期間を増やし、年末年始、GW、お盆以外は利用可能とする。
4・きっぷの有効期限は購入後1年。未使用きっぷの払い戻しはしない。
5・利用時はマイナンバーカードを携帯すること。(事故時の対応のため)
6・新きっぷの名称は公募する。

ま、1時間ほど考えた末のプランです。70歳定年が普通になることを見越した提案。このきっぷを使って父さんはおおっぴらに家出できてハネを伸ばし、母さんは自由時間たっぷりできてハネを伸ばし・・観光関連業者は潤い、マイナンバーカードの普及促進にも寄与する「81きっぷ」です。


これが実現したら、いまの「ジパング倶楽部」は魅力を失って廃止されるはずです。昭和時代の産物ですから、もうそろそろ更新してもよいでせう。コロナのせいでインバウンドの急速な回復が見込めない現在、まずは財布にゆとりのあるシニアをターゲットにして売り上げアップを図る。旅行者の人数が増えることで存廃が問われてるローカル線の利用者が増えるかも知れません。


鉄道ファンはお気づきでしょうが、在来線の減便が続いて「安い費用で長距離を移動できる18きっぷ」の魅力は薄れてしまいました。体力の無いロージンには楽しさよりしんどさが負担になります。JRの石頭幹部の方々、ぜひ「老春きっぷ」を実現して下さいませ。


(注)この「81きっぷ」が実現すると、通常価格より3割~5割安くなります。現在でもJR各社は閑散期に特定エリアに限って通常より3割くらい安い「乗り放題」チケットを発売しています。むろん、これは年令制限ナシです。

 

 

 

半藤一利「幕末史」を読む

 著者が東京の某所の生涯学習講座みたいな講座でしゃべったことをまとめた本。話し言葉で書かれているので親しみやすいが、内容がラフというものではない。膨大な資料を渉猟して得たマジメな情報を500頁とヴォリュームたっぷりの本にまとめました。


歴史マニアは別として、フツーの人で幕末から維新、日露戦争までの近代史の一端をきちんと語れる人は極めて少ないのではと思ってます。dameo なんか、この手の本を相当読んだはずなのに、未だにチンプンカンプンです。


なぜ、このわずか数十年の歴史がわかりにくい(覚えにくい)のか、自分なりに考えてみた。要は、この時代、圧倒的なヒーローがいなかったからではないか。織田信長とかナポレオンみたいな傑出した人物がいたら、まず、本人の業績や人脈が明らかになるし、誰がライバルなのかも分かりやすい。木でいえば、太い幹と枝がはっきりしている。ところが、幕末~維新に現れる人物は、時代の、国家のヒーロー、リーダーという観点からはみんなB級なんですね。幹がなくて枝ばかりという感じ。あるいは、B級からA級にアップする前に殺されたりして志を遂げられない。


坂本龍馬吉田松陰、髙杉晋作、勝海舟徳川慶喜、家茂、井伊直弼松平春嶽島津斉彬、久光、孝明天皇三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通西郷隆盛岩倉具視・・・ほかにもいっぱいいて、しかし、ピカイチという人物がいない。みんなチョボチョボ、どんぐりの背比べ。
 これにチームとして薩摩藩長州藩、さらに会津藩などがややこしく絡み、彼らがそれぞれ尊皇だ攘夷だ佐幕だ、なんたらかんたらするものだから、読者はつい軽~く読み飛ばしてしまいます。で、何が何してなんとやら、頭のメモリーがワヤワヤになるのであります。


それはさておき、著者、半藤氏はこれらの人物群の中で誰を高く評価しているか。一番ほめられているのは勝海舟です。いよいよ徳川幕府崩壊が目前になったとき、最後の将軍、徳川慶喜は勝を呼び出し、サシで「ここで頼れるのはお前しかいない。最善の策を考えてくれ」と懇願した、といいます。このあたり、なんだか講釈師ふうの語りになるのですが、勝サンはハッシと受けてかくかくしかじかと進言する。ドラマチックなシーンです。


勝海舟の優れたところは、ものすごい勉強家であるとともに、混乱のさなかにもバランス感覚を失わず、クールな判断ができたことでせう。まわり皆がカッカしてるときに、何がベターかベストか考えることができた。さらに、階級社会が崩壊しつつあったときだから、身分の違いを越えて、とんでもない目上の人にも臆せずにモノが言えた。


著者は、当時は強力なまとめ役がいなかったために、戊辰戦争西南の役などで多くの命が失われた。馬鹿馬鹿しい、と批判します。その通りでありますが、B級人物群がてんでばらばら、自分勝手な「正義」を振り回して混乱させたのは良くないにしても、私利私欲だけでポジションを争うような輩はいなかった。(外国と通じて利権を漁るとか)そういう面は評価して良いと思います。


徳川時代の藩を解体して「廃藩置県」を実施したのはいいが、これが 機能を発揮するまで、日本には軍隊も警察もない、いわば国防の真空状態に陥った期間があります。現在でいえば、ある日から自衛隊も警察もない状態になった。想像するだにオソロシイ場面であります。もし、このとき外国の艦隊がわんさと押し寄せて「ホールドアップ!」なんてやられたら日本はオシマイです。国体を変えるときはこんなスリリングなシーンを経験しなければならない。日本が極東の島国であることは天恵であったと言えるでせう。


前記したような幕末に活躍した男たちはおおむね25才~45才、しかも血筋でいえば下層階級の者が多く、いわば革命家の役割を担い、それゆえ仇敵に殺されたり、自刃したりと、平穏な人生を送った者は稀でした。天皇でさえ、孝明天皇は暗殺の疑いが未だに晴れない。(2013年4月 新潮社発行)


著者が暗殺説を支持している孝明天皇明治天皇の父)

 

ネットで「遺産相続登記」をやってみた

法律改正・・相続手続きをさぼった人に罰金が課されます
 たいていの人は生涯に一、二度、相続問題に関わり、自ら手続きして相続手続きの何たるかを学びます。でも、手続きは面倒なので放置する人が多い。この実情に鑑み、法律が改正されました。2024年から「相続を認識してから3年以内に手続きをする」ことが義務になります。それでも放置を続ければ「10万円以下の科料」が課されることになりました。(注)救済措置もあります。


 そんな面倒くさい相続手続きは従来司法事務所など専門家に依頼するのが常でしたが、これをネットを介して請け負う会社があります。遺産相続という大事な手続きを対面交渉なしで済ませて良いのか? 誰しも心配になります。


気になる<業者の信頼度>と<手続き費用>
 今回利用した会社は2018年創業なので社歴わずか4年、社長はじめ幹部は30歳代と覚しき若者です。新システムの開発業者かも知れませんが・・ダイジョウブかなあ。

 ネットで相続手続き・・といっても、手続きの基本は紙とハンコのペーパーワークです。ITなんか関係の無い、昔ながらの紙の書類作りが仕事です。なので、筆者の想像するところ、オフイスのデスクは紙だらけになってるはずです(笑)会社と顧客とのやりとりには個人情報漏洩防止のためにIDやパスワードを使いますが、難しい操作は無く、少しの手間で済みます。
 相続手続きのペーパーレス化は難儀みたいで、例えば戸籍謄本や印鑑証明書を紙以外で作成するのは難しいでせう。いっぽう、印鑑証明書はコンビニの機械から取得できるなど、便利になっている面もあります。


熟慮?のうえ、発注しました。完了までに約4ヶ月かかりました。物件により、2~5ヶ月程度を見込む必要があります。代金は税込みで76,780円。司法事務所などに依頼した場合、15~25万円程度が相場なので割安です。この金額は相続人が一人でも五人でも、また、物件評価額がが100万円でも1億円でも同じです。(注)手続きにおいては印紙による登録免許税の支払いが必要です。この金額は物件によって大きく変わります。 順調に運べば、メールと郵便の往復だけ、電話もナシで済みます。最後に法務局から新しい書類が「本人限定受取」郵便で届いて一式終了です。


悪質業者がはびこるかもしれない
 このビジネスが世間の信頼を得て実績を積めば、例によってマネする業者が続々と現れ、怪しい値引き合戦でトラブル多発が想定されます。一方、当事者は無関心ゆえに相続税の大幅なアップも知らず、手続きをはじめてから気がつき、身内の争いのモトになりかねない。ともあれ、相続案件に関わりのある人は、まず物件を書類で確認し、関係者=相続権利者を特定することからはじめませう。初体験の人は発注するまでに相応の学習が必要です。


パソコンでメールのやりとりが出来る人なら誰でも発注できます。スマホでもできますが、長文の説明は読みにくいので紙のパンフレットを取り寄せて読むのがベターです。なお、登記手続きを会社に依頼(発注)しても,依頼当事者間でトラブルが生じる懸念があれば、会社が受注を断ることがあります。

参考
https://so-zo-ku.com (そうぞくドットコム)

 

 

BRUTUS編「すべては、本から。」を読む

 

 めったに立ち寄らない雑紙売り場で目にとまったのがこの本。購入するのはン十年ぶり・・であります。いまどきの若者、中年はどんな本を読んでいるのかという傾向と売れ筋を知りたくて買いました。文字の小さいのが気に入らないがムリしてページを繰る。カッコイイとおもったのは森永博志氏の「勝手に自家装幀本」というページ。市販本の表紙を自分流におしゃれにデザインしてこの世に一冊きりの愛蔵本にする。でも、相当のハイセンスと器用さがなければできないみたい。


この時代の人気作家はだれなのか。紹介されているのは阿部和重氏と多和田葉子サンでした。名前は知っているので図書館へ寄って一冊ずつ借りた。
 多和田葉子「海に落とした名前」と阿部和重クエーサーと13番目の柱」。
残念ながら,両作品とも期待はずれでした。ぜんぜん面白くない。「海に落とした名前」は航空事故のショックで記憶をなくしてしまった女性の話。記憶は消えたけど、バッグにはレシートの束が入っていて、もしやこれが記憶回復のきっかけになるのではというのですが(バッグにレシートが大量にはいっているというのは不自然だ)話がもたもたして前へ進まない。で、展開がないままポチリと終わってしまいます。アホクサ、であります。


阿部和重クエーサーと13番目の柱」。なんの話やねん、といぶかりつつ30頁ほど読み進んだけど、愛想尽きて読了。時間の無駄になりました。
 というわけで、たまたま駄作に出会ってしまったのが残念ですが、それは自分の鑑賞力のないせいかもしれず、別の人が読めば十分面白い読み物かもしれません。次回はもう少しマシな作品に出会えますように。


多和田葉子さんはドイツ語でも小説を書いてる国際派の作家だそうで、国境も言葉の壁も楽々越えて、国際的評価では村上春樹を追い越すかも・・。期待しませう。(2021年 マガジンハウス発行)

 

阿部和重

 

多和田葉子

 

小山和伸「これでも公共放送かNHK!」を読む

  受信者から強制的に受信料を徴収して経営しているのに、デタラメな番組をつくって国民を欺いてるのがNHK。その内実を糾弾する本です。・・と書いてもネタが古いし、視聴者のほとんどには「何のこっちゃねん?」な、ウケない話題であります。


NHKのすべての番組が駄目番組なのではなく、一部の反日思想にまみれた記者やディレクターが制作する番組が朝日新聞と同じ思想でつくられている。それが放送されると当然問題になり、批判、糾弾される。受信者の一部は、こんなええ加減な放送にカネが払えるか、と契約を拒否し、裁判沙汰になっている。


いささか古い話ですが、 本書で、著者が一番問題にしているのが、2009年4月に放送された「シリーズ・JAPANデビュー、アジアの一等国」というドキュメンタリー番組。反日思想に凝り固まったスタッフが、戦前の日本と台湾の関係を思いっきりデタラメに描いた。たちまち、台湾で取材を受けた現地の人や日本国内からも批判の嵐が起き、裁判になってただ今は高裁判決がでたところ、最高裁まで争われるはずです。


原告の人数が10000人。いかにインチキな番組だったか分かります。とはいえ、朝日新聞慰安婦問題」等の原告27000人に比べたら少し地味ですけど。(dameo も原告人として登録しました)
 もう一つは、2001年放送の「ETV2001 問われる戦時性暴力」という番組で、左翼市民グループが「女性国際戦犯法廷」を企画し、旧日本軍の戦時中の性暴力を糾弾するとして、昭和天皇強姦罪で死刑に処す、なんてトチ狂った演出をした。この企画に携わったのが朝日新聞の記者、松井やより(故人)だった・・。以下、説明するまでもありませんね。


見ない自由を許さないNHKと「放送法第64条」
 64条は「NHKを受信できる受像器を設置した者は、NHKと契約しなければならない」となっており、見ない=払わないを選択する自由はない。これをタテに契約を強要しています。契約しない者にはNHK側がスクランブルをかけて受信出来ないようにする技術はすでにあるそうですが、それは知らん顔して、押しつけているのが実情です。ちなみに、本書によれば、NHK職員の平均年収は1750万円。こんなに高給もらって国民を欺く番組をつくってるのだら、優雅な商売であります。(2014年3月 展転社発行)


◆NHK受信契約率・・大阪はビリから二番目
 2013年末での契約率は全国平均で74,8%。4軒に1軒は払ってないことになります。大阪は59,1%。沖縄県の45%に次いで低く、ブービー賞ものです。世帯の半分近くがタダ見してるってことです。逆に高いのは、秋田、山形、新潟、鳥取、島根、の5県は90%を越えています。人の出入りの激しい都会は捕捉しにくいということでせうか。

 

 

石原慎太郎「太陽の季節」と選評を読む

 著者の絶筆「死への道程」は文芸春秋四月号に掲載され、3月13日、当ブログで紹介しました。幸いにも同号では石原氏の芥川賞受賞作「太陽の季節」とその選評全文も掲載されたのでトクした気分で読みました。芥川賞作品を読む楽しみの三分の一くらいは「選評」を読むことにあり、ゆえに、単行本では読んだことが無い。


受賞は昭和30年(1955)。そのとき dameo は16歳。みなさんは大方生まれてなかったでせう。本書は読まなかったけど、世間で大きな話題になったことはうっすら覚えています。
 物語は、べつに何と言うことも無い風俗小説で、コレというアイデアもなければ、センスのいい文章もない。今ならB級テレビドラマの脚本相当の評価しか得られないでせう。しかし「ガサツで荒っぽい」印象が新鮮と受け止められた。細部は欠点だらけだけど、なんかパンチがあるぞ。これで点数を稼いだ。


 いっぽう、芥川賞というクオリティを考えると、こんな雑な風俗小説に賞を与えても良いのかという意見もあった。最終「太陽の季節」受賞に賛成したのは、石川達三舟橋聖一、の二名、しぶしぶ賛成は井上靖川端康成中村光夫瀧井孝作、の四名。受賞に反対したのは、佐藤春夫丹羽文雄宇野浩二、の三名だった。選評会では決して好評ではなかった。他の候補作が駄作だったことで救われた感もある。


以下、有名作家の選評を略して書きます。
石川達三
 欠点はたくさんあるが、推すならこれだと決めた。作者の倫理観や美的節度など問題がある。しかし、如何にも新人らしいところがいい。この人は今後、駄作をいろいろ書くかも知れないが、駄作、大いに結構だ。傑作を書こうとすると萎縮してダメになる。

井上靖
 私の好みの作風ではないけど、のびのびした筆力、作品にみなぎるエネルギーなど、小気味いいものだ。今後もいろいろ批判されるだろうが、青春文学の佳品を見せてもらいたい。

川端康成
 ほかに推したい作品がないので「太陽の季節」を推す選者に追随した。ただし、石原氏のような若い才能を推賞するのは大好きだ。一方、この作品ほど欠点を指摘しやすい作品はない。極論すれば若気のでたらめともいえる。

舟橋聖一
 ほかの作品は「太陽の季節」に比べると見劣りがした。私がこの作品を推したのは、一番純粋な「快楽」と真っ正面から取り組んでいる点だった。道徳派の人間は快楽とは常に金の力で得られるものと決めているが、これは間違いだ。
快楽=不義、不純ではない。


今から66年前・・こんなカメラを使っていた
太陽の季節」が掲載された「文藝春秋」誌、昭和31年(1956年)3月号の誌面。注目は左のカメラの広告で「蛇腹式」と呼ばれた、こんな全手動式カメラが普通に使われた。価格が10、000円とあるが、当時は大卒の初任給が8000~9000円、高卒は6000~7000円くらいだった。現在の物価に換算するとこのカメラは20万円以上の値段になる。

 

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惨憺・・ウクライナと同じような光景(1945・大阪市)

 連日、ニュースで報じられるウクライナの戦場シーンを見て幼時の記憶が蘇る。戦争で米軍にボコボコにされた大阪の廃墟風景であります。ウクライナの廃墟風景は、ミサイル、ロケット弾、砲撃によるものだが、東京や大阪など都市は空襲によって廃墟にされた。兵器は爆弾と焼夷弾だった。少数の運の悪い人は機銃掃射で亡くなった。


下の写真を見て空襲を思い出せる人はもう百人に一人いるかどうか・・。もしや,自分の年令(1939年生まれ)が記憶可能な限界かも知れないと思って、4年前<1945年 大阪大空襲>というノートをつくった。5歳から6歳で経験したことの場所と時系列をできるだけ詳しく調べてノートにまとめるのが目的で半年くらいかかってつくった。他人に伝えるためというよりは、まず、自分が納得したい、というのがホンネだった。ということで、幼時のわずか半年間の戦争体験記がワンポイントの自分史=遺書になった。半年間の世界一周旅行の体験記と天地の差がありますなあ。


図書館やピース大阪(戦争資料館)で資料にあたってあれこれ推察する作業は、なんかミステリーを解くような楽しい作業でしたね。一番救われたのは家族に死傷者が無かったことと、低年齢ゆえに恐怖感や悲しみが脳のメモリーに刻まれなかったことです。東日本大震災の被災者でも、6歳と12歳では心に負う傷の深さはずいぶん違いがあると思う。


白黒写真しかないけど、炎上、廃墟シーンはそこそこリアリティがあります。ほとんどが知ってる街の風景なので廃墟と今の風景の違いがわかります。
 「空襲」という文字を見て具体的にイメージ出来ない人は、それだけで dameo よりシアワセな人といえます。但し、この先も「空襲」がないとは言えないでせう。日本の隣国は概ね敵対国ですから。

 

焼夷弾でボコボコにされた環状線森ノ宮

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こちらは爆弾で崩れた大阪市中央市場場内

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難波東方から北方向の風景 左奥の大きなビルは大丸百貨店 心斎橋店

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毎日新聞から見た大阪砲兵工廠の爆撃風景 右端に大阪城天守閣が見える

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ミナミの中心、戎橋と右手は松竹座、左のビルは現在「かに道楽」本店に。

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戎橋の「グリコ看板」上部あたりから北を見る。通りは心斎橋筋。橋とビルのあいだの道が宗右衛門町通り。

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多忙の手塚治虫センセは風景の描写に上の写真を使った。考える時間が省けます。

作品は「アドルフに告ぐ」だけど読んだ覚えが無い。

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爆弾で破壊された住宅と倉庫 堺市

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焼夷弾は日本の木造家屋焼却用に開発されたアイデア商品、いや兵器で、とても合理的な設計になっている。長さ50cmの弾を38本束ね、上空5000m以上から投下して

地上500mでバラけると同時に着火する。計算では50平米に一発の割合で投下するため、爆撃機の編隊飛行にもきびしいワザが求められた。自宅が焼失した6月15日の空襲では大阪市尼崎市の一部を目標にB29が440機来襲して3000トンの焼夷弾をバラまいた。

 

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焼夷弾で燃え上がる北新地の木造住宅・店舗。昼間の撮影だが黒煙が5千メートル上空まで覆い、夜のように暗い。煤混じりの雨が降って顔も衣服も黒く汚れた。

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B29の墜落現場を見物
 あいまいな記憶が多いなかで、二つのシーンは動画ふうのリアルな記憶がある。ひとつは、自宅から300mほど離れた四天王寺五重塔の炎上、倒壊シーンを見たこと。もうひとつは下の写真、爆撃機B29の墜落現場を見物したこと。


墜落の翌日か、翌々日に父に連れられて動いてる市電を乗り継いで出かけた。場所は中央区堺筋と周防町通りの交差するところ。生まれてはじめて間近に見る飛行機が「残骸」だった。ここで機関銃の銃弾を一ヶ拾った。(10年くらい持っていたように思う)今回、資料で調べてみると、口径12,7ミリの「汎用製品」だとわかった。戦闘機、爆撃機で共用する量産品。
 もう一つ、調査でわかったことは、このB29を墜落させた高射砲が難波の高島屋百貨店の屋上に据えられた高射砲だった。ホンマか?とマユにツバしたくなるのですが、複数の記録がありました。B29の乗員は全員死亡した。現場の住民の犠牲者数の記述は見つからなかった。


決定的瞬間
 左上・サーチライトに照射されながら墜落するB29機。他の白い線は焼夷弾の光跡。(朝日新聞 撮影)

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堺筋の墜落現場 ここで機関銃の銃弾を拾った。

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写真の主な引用元 「写真で見る大阪空襲」ピース大阪発行(2011)
ピース大阪の案内  https://www.peace-osaka.or.jp

野呂邦暢の作品を読む

諫早菖蒲日記

■夕暮れの緑の光

 

 作家にも、地味タイプと派手タイプがあるとすれば、この人はジミ派の代表。作品がトップセラーになったとか、映画化されたといった世俗的話題には上らないまま、1980年、42才で急逝。しかし、そのジミな作品を愛するファンが多く、今回読んだ2冊も、没後30年を機に、再編集、発行されました。1974年(昭和49年)「草のつるぎ」で第70回芥川賞を受賞。

 

諫早菖蒲日記
 著者が長崎県諫早で借りて住んでいた家が、実は幕末の諫早藩の中級武士(砲術指南役)の家であった。その土蔵から見つかった砲術書などの資料に興味をもってイメージを膨らませ、武士の娘の目線で当時の世情を描いている。こういうきっかけで小説が生まれることもあるのですね。

 

想像力と創造力、この二つがかみ合って、まるで自分の先祖の生きようを描くように話が展開されるのですが、正直言って、最初の数十ページは退屈しました。しかし、武士や庶民の暮らしぶりの丁寧な描写に付き合ううちに、わずか1~2行の文を書くために、作者はどれほど歴史資料を渉猟し、裏付けをとり、表現に気遣いしているかを察して、なんか頭の下がる思いさえして、以後、すいすいと読み進んだのであります。

 

歴史小説ははじめてという作家にとって、また、描くのが自分の故郷であるために、いかほど神経を消耗したか、ヒシと伝わります。会話での方言の扱いかたなど、クレームが出やすいだろうから、あれか、これかで呻吟したのではと察します。一方、江戸時代の諫早の地形、埴生の描写なんかは、まるで昨日見てきたかのような、リアルで細かい表現がなされていて、この人、かなりの地図ファンでは?と勝手に想像し、親近感を抱いたのでした。
 

■夕暮れの緑の光
 1970年代といえば、まだ文学青年という言葉が死語になっていない時代、あるいは末期だったかもしれない。本書を読むと「文学青年のアンカー」みたいな著者が、もうブンガクなんかでメシは食えんのとちゃうか」と察知しながら、しかし、文学青年的ライフスタイルから足を洗えずに、名もなく貧しく、しみじみと暮らすありさまが伝わります。


妙にホッとする文がありました。同郷の詩人、伊東静雄の詩は難しくてワカラン、と書いているくだり。そーか、プロの作家にしてなお難解な詩であれば、ド素人の自分なんかチンプンカンプンは当然、しゃーないちゅうもんや。野呂センセイに限らず、伊東静雄の詩の難解さは、イメージの飛躍しすぎで、ついて行かれへん、ということでしょう。(作った本人しかわからないのでは?)


無知ゆえの偏見を言わせてもらえれば、伊東静雄の詩は韻律のかっこよさが魅力であり、内容の理解云々は、ま、ちょっと脇へ置いといて・・ではありませぬか。ご本人も自作の朗詠が好きだったそうだから、全くの見当ちがいではないと思うのであります。

野呂邦暢の紹介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%91%82%E9%82%A6%E6%9A%A2

 

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きたみりゅうじ「フリーランス はじめてみましたが・・」

 人は生涯に何度「退職願い」を書くのだろう。そんなデータはないと思うけど、勝手に想像すれば2~3回ではないだろうか。現在の若者は5回以上が普通になるかもしれない。dameo の場合は4回退職して自営業になったけど、4回目は社長が夜逃げしたので「退職願い」は不要でした。


その「自営業」を今は「フリーランス」というらしい。なんか気恥ずかしくて額に汗がにじみそうになります。本書の著者、きたみりゅうじ氏はまもなく三十歳を迎える中小企業のSE。血液型はB型で決まり事の多いサラリーマンに嫌気がさしてるけど、独立してしっかり稼ぐ自信もない。しかし、会社ヤメたい・・このようにウジウジ逡巡している人、多いのではありませんか。


結局、退職した。で、何が一番良かったかというと「遅刻」がなくなったことです。(著者は遅刻の常習者で社内で悪評だった)なんか、ささやかな幸せですが実感でせう。さて、肝心のメシのタネはどうするのか。著者の場合、退職前から技術評論社というIT関連の出版社とコネがあって渡りはつけていた。しかし、必ず仕事がもらえるという約束はない。なりゆきであります。


こういう状況での不安はすごいのではと思います。無収入だから貯金はドスドス減ってゆく。しかも,来年には赤ちゃんが生まれる予定だから、ギリギリプレッシャーがかかる。こんな恐怖を味わいたくないから退職をためらうのです。
 幸いなことが一つあった。著者はSEだから技術解説書は書けるのですが、もう一つ、余技として漫画ふうのイラストが描けるという特技がありました。これが「芸は身を助ける」ことになったのです。


くそマジメだけより、不マジメもできる。これも持って生まれた才能でせう。そんなご縁でポツポツ仕事が入るようになった。もちろん、苦手なゴマスリ営業努力もした。フリーランスのどこがフリーやねん、と言いたいことも多々あったと思います。


努力の甲斐あって少しずつ実績を積み、中には発行即重版決定のヒット作もあったそうです。ここでも「漫画も描ける」キャラが役にたちました。余技ではなく、本職に値すること出版社に認められました。本書はその苦労とやりがいのあれこれを綴ったもので、単にマジメだけのライターでは出版できない「おまけの一冊」といえるでせう。メデタシ、メデタシであります。


さて、これで著者のフリーランス人生は安泰といえるのか。言えない、と思います。もともと地味な解説書づくりであり、一般書のようなヒット作は生まれにくい。かつ、内容からいって本の賞味期限がえらく短い。自転車操業的に次から次へ新しい本を出さないと収入につながらない。そして、フリーランスゆえに何の保証ももないのであります。さらに危惧するのは、文芸書の出版とちがって著者の年令が増すほどに執筆能力が衰えていくことでせう。この業界で、70歳でヒット作続々のライターなんてあり得ない(不詳)。これは恐怖だと思います。


老後の生活を考えるなら、三十才代から年間百万~数百万円の貯金を積み上げ、上手に運用する「銭ゲバ(ふる~~~)」になる必要がある。あこがれのフリーランス人生を成就出来る人は十人に一人くらいではないでせうか。(平成17年 技術評論社発行)

 

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浦久俊彦 「悪魔と呼ばれたヴァイオリニスト」             ~パガニーニ伝~

 読みたいと思っていたパガニーニの伝記にようやく出会った。18~19世紀にヨーロッパで大活躍したニコロ・パガニーニの天才ぶりと波乱に満ちた生涯をコンパクトにまとめた本で、興味津々だからすいすい読めました。


 異様な風貌と黒づくめの衣装の印象などから「悪魔」呼ばわりされてしまったパガニーニ。外見だけでなく、演奏能力も超絶技巧だったために、人間ワザではない、もはや悪魔的である、という意味もあるから悪魔は非難だけのことばではない。(しかし、わがまま、守銭奴、女たらし、といった悪評もあった)本書を読む限りでは、もう、未来永劫パガニーニ以上の演奏者は出ないのかと寂しい気にもなる。せめて彼が100年後に生まれていたら録音が聞けるのになあと残念でならない。


 パガニーニが頭角をあらわした1800年代前半の演奏会はまだ貴族や一部の富裕層の趣味で庶民は縁がなかった。しかし、人気が高まると庶民のあいだにまで「悪魔的名人」の評判が広まり、演奏会場は常に混乱した。当時は現在のようなチケット販売システムなんかなかったからお金のない庶民はなんとかタダでホールへ潜り込もうとする。場内は喧噪を通り越して乱闘騒ぎまで起きた。


 なんとか騒ぎを静めて演奏が始まると、場内の雰囲気は一変、今まで聴いたことのない圧倒的なワザと迫力に聴衆は心を奪われ、今ふうに言えば「失神しそう」なくらい魅了された。はじめはイタリア国内での巡業だったが、通信と言えば馬車便しかなかった時代なのに周辺諸国に「悪魔」のウワサが伝わり、あちこちから興業の声がかかった。現在のフランス、ドイツ、オーストリア、イギリス・・どこへ行っても大成功だった。


 当時の有名作曲家たちも彼の演奏を聴いた。シューベルトシューマン、リスト、ベルリオーズなどが実際に聴き、みんなメロメロになったらしい。まだ若かったリストなんか「僕はピアノのパガニーニになる」と大コーフンしたことが記録に残っている。現在、リストの作品として知られる「ラ・カンパネラ」はパガニーニの「ラ・カンパネラの主題による華麗なる大幻想曲」をピアノ曲にアレンジしたものだ。


 ロマンチストに人気のあるドイツの詩人、ハインリヒ・ハイネはこんな印象を綴っている。「地獄から上がってきたような暗い風体の人間が舞台に現れた。それが黒い礼服に包まれたパガニーニであった。黒の燕尾服と黒のチョッキはおどろおどろしい形で、地獄の作法によって決められたベルセボネーの館のものであるかのようだ。やせこけた足のまわりで黒いズボンが落ち着きなくだぶついていた。彼が一方の手にヴァイオリンを、もう一方の手に弓を下げてもって、ほとんど床に触れそうになりながら、とてつもなく深いお辞儀をすると、彼の長い手はいっそう長くなったように見えた。あの懇願するような目つきは瀕死の病人の目つきなのであろうか。それとも、そこにはずる賢い守銭奴のあざけりの下心が含まれているのであろうか」この文章でパガニーニの舞台姿をおおむね想像できる。異様な体格と黒づくめの衣装・・常識とは逆にあえて「悪魔」の姿を自己演出したのは大成功だったといえる。


 「悪魔」は延べ数年に及ぶ巡業で莫大な金を稼いだ。はっきりした金額は不明だが、現在の金で何十億円といった金額らしい。こんなにガツガツ稼いだのは、一人息子、アキーレに財産を残してやりたいという親心ゆえだが、もう一つ熱を入れたのが優秀な弦楽器のコレクションだった。彼が生涯愛用したのはグアルネリだが、ストラディヴァリウスのヴァイオリンやヴィオラ、チェロも買い、弦楽四重奏曲を演奏する世界最高の四重奏団づくりを夢見ていた。


 ここまで「悪魔のような」パガニーニのあらましを書いてみた。200年前の遠い異国のアーティストの話で現代の日本人にはなんの関係もないように思えるが、実はご縁がありました。上に書いたパガニーニがコレクションした四重奏のための弦楽器、実は日本が購入していた。楽器はいったんアメリカの金持ちに買い取られ、長らくクリーヴランド弦楽四重奏団が使っていたが、1994年、日本音楽財団がこれを16億円で買い取り、東京カルテットに貸与した。一挺平均4億円であります。当時はまだバブル景気の余韻があった時代だからこんな破天荒なことができたのかもしれない。パガニーニが苦労して集めた世界最高の弦楽器はいま日本の財団の所有物なのであります。(東京カルテット解散により、今はオーストリアのハーゲン四重奏団に貸与している)


 先日、パガニーニ由来の曲がTVのCMに使われているのを聴いてうれしくなった。なんのCMだったのか覚えていないが、ラフマニノフ作曲「パガニーニの主題による狂詩曲」の一節でとてもロマンティックな旋律だ。当然、何百万人もの人が聴いていて、なんか知らんけどええ曲やなあと感じたのではと想像する。本当はアレンジしたラフマニノフの功績だけど「悪魔くん」の作品がTVに流れる時代になったのであります。(2018年 新潮社発行)


参考 <東京カルテット>
   米・ニューヨークを拠点とする弦楽四重奏団。1969年にジュリアード音楽院に留学していた原田幸一郎、名倉淑子、磯村和英、原田禎夫桐朋学園卒業生で齋藤秀雄門下生4名によって結成。コールマン・コンクールや70年のミュンヘン国際コンクールの優勝で一躍脚光を浴び、ドイツ・グラモフォンなどとも契約。世界トップクラスの演奏を誇り、世界ツアーやベートーヴェン弦楽四重奏曲の全曲演奏も行なう。『セサミ・ストリート』などの米TV番組にも出演。メンバーチェンジを重ねながら活動を継続するも、創設メンバーの磯村らの2013年6月の退団をもって解散。

 

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■ 業務スーパーのお買い得品 ~今日もニコニコ節約暮らし~  

 安さがウリのこの店もジリジリ値上げが続いて一年に一割くらいは高くなったような気がする。安かろう・悪かろうのイメージがあって軽蔑の眼差しを向ける人も多いが、慎重に選べば○ビ人間には役立つ店であります。
 当店の安売りイメージの象徴のように思われている食パンは69円(税別)で昨年より2円値上げされたが、一般価格の半額に近いのではないか。


写真の左は「ミックスベジタブル」1kg入りで268円(ベルギー産) 右は冷凍しまほっけ。半身4枚で318円 (アメリカ産)。他に、オクラやカボチャなどは冷凍モノを買うのが習慣になってしまった。安いだけでなく、包丁なしで使えるのが助かります。

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